ベルゼン・アーカイブ

アレクサンダー・ベルゼン博士の仏教講義録書庫

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菩提道次第(ラムリム)の概観

ツェンシャブ・セルコン・リンポチェ一世
1982年10月 英国ロンドンにて
アレクサンダー・ベルゼンによる翻訳と編集
ポーリーン・イェーツによる再編集

貴重な人間への輪廻転生の最善の活用

私たち皆が人間の貴重な身体(からだ)を受けて、貴重な人間に輪廻転生しました。このことが精神面(スピリチュアル)を発展させるという最も偉大なことを可能にしたのです。悟りを成就するための機会は、今人間として持っている以上のものはないでしょう、これは神々の王であるインドラとして輪廻転生することにも勝るものです!

今持っている取り組みのための土台(基)以上のものはないのですから、それをどう最善の形で活用するかについての手順の全てを知ることは大切です。精神(スピリチュアルな)面を進展させる最も優れたやり方は、自分自身の中に、さらにさらにと、親切で暖かい心(ハート)を育むことです。温かい心という土台の上に、それから菩提心の目標という献身的な心(ハート)を発展させるのです。これは悟りを成就しようという願望のことで、言い換えれば自分にできる限りの利益(りやく benefit)をみんなに与えるために、自分の短所の全てを取り除きたい、自分の最大限の可能性を成就させたいという願望です。私たちが自分の心を他者のために、そして悟りを成就するために捧げる時、それが貴重にも人間として輪廻転生した自分たちにできる最善のことなのです。

今生の成功の因は前生での行いによるポジティブな可能性

多くの異なるタイプの人間がいますが、その中で、来生/来世の利益(りやく)のために興味を持つ人に出くわすことは滅多にないことですし、ましてや悟りを得ることに興味を持つ者に会うことはほとんどありません。ほとんどの人がただ今生/現世のみの自分自身の幸せを探すことに関心を持つだけです。それでも、私たちが幸せでありたい、誰も苦しみや問題を持つことを望まないという点で、皆が同じなのです。

今生で幸せになりたいということに焦点を当てている人々には二つのタイプの幸福がありますが、物的な幸福と心的(メンタル)な幸福のことです。しかし、ほとんどの人々が何らかの物的な幸福のみに注目します。その物的な幸福についても、私たちは皆自分の生活にあるレベルの物的な幸福をもたらそうと努力するのですが、ほとんどの者が実際はどのようにしてやるのかを知りません。例えば、食べ物や、衣類や、住居や、社会的な地位を得るために、殺人や、暗殺や、罪のない生き物を屠殺するなどを行います。他の者は、盗みや、だましや、強盗を行うのですが、全てが幸福の追求のためと、何らかの物的な良好な状態を探すためです。しかし、どう試してみても、彼らは心身ともに良好な状態(well-being)をどうやって適切なやり方でもたらすのかを実際は知らないのです。そして、幸福の代わりに、自らに更なる問題を作り出すだけです。

他方では、ビジネスや、商売や、農業や、教育や、芸術などと正直な生き方で最善を尽くそうとする人々も、また二つのグループに分けることができます。富や多くの所有物を得て成功する人々と、成功しないあるいは完璧に失敗する人々です。これをどのように説明できるのか − 何故ある者は成功し他の者は失敗するのか − それはこれまでの前生/前世で彼らが蓄積してきた種子と可能性(potential)の故です。前世で破壊的であった者は、多くのネガティブな可能性を蓄積してきました、その結果として、今生で失敗するのです。前世で建設的に行動してきた者はポジティブな可能性を蓄積してきました、そしてこれが彼らの今生での成功を説明できるのです。

何故ある者は成功し、他の者は失敗するのかについてのこの説明を受け入れないのであれば、何故そのような相違があるべきかをうまく説明する理由が他に見つからないことを考えてみて下さい。もし人々が同等に努力し、同等の能力で働けば、彼らは同等の成功を得るはずです。ある人々は今生/現世における生計のために携わる仕事の種類、例えばビジネスや商売など、の結果として成功がやって来ると考えますが、それで全てを説明することはできません。成功の本当の諸原因は、前世での建設的な行為によって積み上げられてきた可能性で、今生での私たちが携わる仕事や活動は、それらの因が熟するための状況や条件として働きます。

そのようにして、成功することは原因や条件が相互に生起することに依存します。諸原因は前世に由来します、それらの前生の中で蓄積されてきた可能性なのです。今生での時間と課された努力を土台(基)として諸状況が生まれます。その二つが一緒になければなりません。

来生への考慮

今生でどれだけ裕福になろうが、どれだけ豪華なものを楽しもうが、それでも、誰も自分が積み上げてきたもので満足感を得ることはできないようです。一人として、「さて、私は十分に持った、もうこれ以上はいらない」と言う人はいません。誰も自分の持っているものでは満足しません。いつも、もっと、さらに欲するのです。彼らはその全人生を仕事に打ち込みます。しかし、仕事に終わりはありません。

農民が一年の全ての季節を通して、種まきをして、畑を耕して、収穫するなどと働き続けるように、いつまでも繰り返すサイクルになります。春には、また種をまいて、もう一度サイクルをやり通すのです。それが、私たちがいかにただ働き続けるかの一例です。

私たちは今生の仕事に終わりがあると考えることはないのですが、それでも実際に終わる時が来ます、それは私たちが死ぬ時です。その時点では、幸福な状態というよりも悲哀の状態で終わります。

ですから、ただ食べ物や、衣類や、今生での評価を得るために働いている人々は、実際は自分自身を欺いているのです。その理由は彼らが物的な快適さを得ることができても、心的(メンタル)な幸福を達成することができないからです。心の幸福なくしては、彼らの人生は満ち足りることがなく、そして不幸な状態で死んでいくのです。

ですから、心的(メンタル)なものを土台にした、より長続きする幸福のために努力することが大切なのです。今生で達成できる物的な幸福は、長期間続くようなものではありません。本当に長続きする幸せが欲しければ、来生/来世のことを考慮しなくてはいけません。何故ならば来生を計算に入れることで、私たちは本当に長続きする幸せのために努力することができるからです。

来生での幸福を達成するために努力することで、ダルマ(仏法)の修行に携わる、スピリチュアルな人になるとはどういう意味かの定義を満たす事ができます。今生への関心事だけに、滅んでいく事物にだけに関心を限定すれば、私たちはただの世俗的な、物質主義的な人です。もし来生に関わる事に取りかかり始めれば、私たちはスピリチュアルな人になれます。

破壊的な行いを避けて来生での幸福をもたらす

来生/来世における幸福を確実にするには、ダルマ(仏法)の「予防策」を取る事が必要になります。具体的には、私たちが破壊的な行いをする事を避ける事を意味します。具体的な十の破壊的な行為(十不善業)がありますが、身体上の三つ、言葉の上での四つ、そして心の上での三つです。これらの破壊的な行為を避けること(十善戒)で、そのような行為から自分自身を保護し、来生での幸福をもたらせます。

さて、建設的なやり方で行動すれば、今生と今後の来生(後生)において物事がうまく行くようになるためのスピリチュアルな(精神面での)修行の始まりに着くと確立してきました。この種の建設的な行動は、例えば、動物や昆虫を故意に殺す事や、故意に盗む事を見て、それに伴いどのような悪さが、あるいはネガティブな結果が生じるかを知る事です。それを通して、盗みや殺生はしないと強く決心する事になります。そのような決意の下では、もはや、人々が正しく、建設的に行動するための軍隊や警察などの力は必要ないでしょう。人は自らの道徳心と倫理観で、破壊的な行動を避けるでしょう。

厳格な規律を保てば、それが私たちが幸福な状態で死んでいけるために取るべき予防策となります。そうでなければ、悲哀と不安の状態で死ぬはめになるかもしれません。しかし、倫理的な人としてのこれらの予防策を取っていれば、死ぬ時には、何も心配する事はありません。私たちには人間に、あるいは場合に寄ってはインドラなどの天界の神に輪廻転生する事が保証されるのです。

全ての生において制御不可に再発する問題

人間に輪廻転生しても、あるいは神々の中の王に輪廻転生しても、人は常に問題を抱えます。どこに輪廻転生しようが、誰に転生しようが、制御できない再発し続ける諸問題があります。ですから、破壊的な行為を避けるという倫理に従う事で悪趣の一つには輪廻転生しないと、それだけを望んでも意味がないのです。何故なら、どこに、誰として輪廻転生しても、問題は必ず起きるからです。

このことはもっと広い視野を持つ必要性を示しています。例えば、私たちがサンスクリット語では「シャマタ」、チベット語では「シネー」と呼ぶ、穏やかで安定した心の状態(止)を持てれば、その結果として、私たちは善趣の中の高次の存在として、天界の存在のひとつとして、つまり色界か無色界の神に輪廻転生する事ができます。そうなれば、そのような種類の輪廻転生の華麗さをすべて得る事ができます。しかし、そのような高次の存在の一つに輪廻転生しても、それは何も特別な事ではありません。それは高層ビルの最上階に行くようなもので、そこに昇って行けば、後は降りて行く事しか残されていません。

仏陀の言葉に信頼を得る

ですから、どこに輪廻転生しようが、問題を取り除こうと努力する必要がありますし、さらにその先に行こうとする必要があります。そのためには、自分の問題や苦の根本に行き着いて、正しく判別する認識(prajna 慧、シェラブ)でそれを切り倒すことで、現実と幻想をはっきりと判別/区別する必要があるのです。このようにして、ついには、ありもしない在り方は完全に無いとの無自性(空性)を覚ります。現実に対するこの明らかな理解が、私たちの偽りの投影を取り除きますが、そうすることで、どの生においても体験するかもしれない全ての問題や苦を永久に除去するのです。それは永久に続く幸福をもたらしますが、私たちが達成できる事なのです。

仏陀の言葉を保存する古典的な経典から、無自性(空性)についての教えを学ぶ事ができます。しかし、どのようにすれば書かれた内容の有効性/妥当性に確信を得る事ができるのでしょうか?空性についてだけでなく、その中で仏陀が話した事の全てについてです。それらの有効性についての確信は、論理と分析を土台に達成されるべきです。例えば、空性を例にとりましょう。論理的な推論で空性の有効性を確立できます。さらに、深まった集中心、穏やかで安定した状態を達成するやり方に関する教えを、それらのインストラクションを実際に修行してみて、自分自身が実際にそのような状態に到達できれば、それが有効だと立証できます。さらに、これらの修行を通して、そのような集中心を得た時の副次的なものとして説明されている、さまざまな種類の高度な超感覚的知覚を、自分自身が達成することもできます。仏陀により説かれたこれらの点についての有効性を、自分自身の体験から実際に確立できます。

このように、諸題について仏陀が教えたことを実現させようと自分自身が一生懸命努力することを土台にして、論理と個人的な体験を通してその有効性を確立できますし、そうして仏陀の言葉一般の有効性を確固とした信念へと発展させます。その確固とした信念から生まれる安心感で、仏陀が説いた他のより隠れた教えの有効性を深く確信することまで進展させます。

例えば、私たちが建設的なやり方で行動すれば、その結果として人間か神として、善趣のひとつに輪廻転生すると仏陀は言いました。他方では、私たちが破壊的に、ネガティブに行動すれば、その結果は地獄の生き物や、餓鬼と呼ばれるものや、動物(畜生)に輪廻転生することです。これは行動における因果関係について述べていて、自分自身の経験や純粋な論理だけではその言説の妥当性を立証する事は困難です。しかし、経典の権威だからという盲信的な土台で、それらを受け入れる必要はありません。何故なら、論理と体験が仏陀の教え – 深まった集中心(禅定)や空性に関する正しい見解(正見) − の有効性を証明すれば、それは、さらに行動とその結果に関する仏陀が説いた教えを受け入れる事もまた全面的に妥当だとなれるからです。

結果的に、空性について、現実について、ありもしない在り方の全面的な否定(無自性)について仏陀が説いたことに関して、私たちは非常に注意深く考える必要があります。これらが正しいと認識することの上に、そこから、私たちは仏陀のさらなる言説を考察する必要があります。それは建設的に行動する事の結果は幸福で、破壊的に、ネガティブに行動する事の結果は苦ということです(因果応報)。そして、私たちはこの言説もまた正しいとの確たる信念を得るのです。そして、それを土台に、自分の振る舞いを適切に変えていこうとの固い決心をするのです。幸せが欲しければ、それをもたらす様な行動を取る必要があります。具体的には、私たちは建設的に、ポジティブに行動する必要があるのです。

出離 全ての問題から自由になるとの決意

今自分が持っている素晴らしい人間への輪廻転生という取り組みのための土台(working basis)は − スピリチュアルに進展するために備わっている全ての機会を伴いますが − どこからともなく現れたのではありません。それは(これまでの)前生/前世で蓄積してきた膨大なポジティブな可能性の結果です。私たちは非常に建設的に、ポジティブに行動してきたに違いありません、そしてそれが今持っている輪廻転生と機会をもたらしたのです。ですから、私たちはこの機会を無駄にする様な事をしてはいけません。食べ物や衣服、名声や評価を得るなどと、今生の事にのみ全面的に関わると、今生が無駄になります。これらが私たちの唯一の関心事であれば、この固執により、今生のみに全面的にとらわれる事から目を背ける事ができません。

他方では、私たちの全ての努力を、インドラ神などの神に輪廻転生を得ることで、来生の幸福を得る事にのみにあてれば、これもまた問題があります。そのような神の持つ人生の種類を見てみて下さい。この神はとてつもない幸福をもち、表面的な問題などはありません。しかし、その死の時には、そのような神はとてつもなく後悔するのです。何故ならば、快楽に満ちたその全人生がただ夢のようなものであったのだとなるのですから、その死と直面する時にはとてつもない苦と不幸をもたらすことになります。ですから、その様な輪廻転生が自分のゴールだとすることでは、私たちの全ての問題の解決とはなれません。

さらに、私たちは人間の貴重な身体を持つという取り組みのための土台を十分に活用しなくてはなりません、何故ならそれはいつかは失うものだからです。誰一人として、生まれてから死を逃れたものはいません。死は私たち全員に確実にやってくるものです、ただ時間の問題なのです。誰一人として自分がいつ死ぬのかを知る人はいません。このような現実について考えると、今、生きていて元気なうちに、今持っている機会を十分に活用しようとの願望の方に、私たちを酔いからさますかのように仕向けます。

ですから、私たちは今生だけのためにものを得る事にとらわれる事から目を背けることが必要です。今生のさまざまな朽ちていくものが、いかにして長続きする本質を持っていないかについて思い起こすことです。このようにして、今生のためのものへの固執から目を背け、その類いのとらわれを土台にして生起する問題から自由になろうと決心するのです。自由になろうとするこの種の決心を「出離」と言います。

同様に、来生/来世について、どのような種類の状況に輪廻転生するのか可能性のある全ての状況について見てみる必要があります。来生で人間か神に輪廻転生する華麗さや幸福について考える時、これらもまた問題を持っている事を思い出す必要があります。どのようにうまくいったとしても、諸問題が制御無く繰り返し起きます。そのため、そのような来生の事に執着し、とらわれる事からもまた目を背ける必要があるのです。これは二つ目の種類の決心を持とうとする事で可能になります。具体的には、諸来生/後生でこれらのとらわれから起きる問題から自由になろうとする決心です。

ですから、自由になろうとする決心には二種あります。今生の問題から自由になろうとする決心と、今後の全ての来生/来世(後生)での諸問題から自由になろうと決心する事です。

無常

スピリチュアルな(精神面での)修行者とは、今生においていかなる状況も常に固定したままではないとの事実についてマインドフルな者のことです。つまり、無常と死に関してマインドフルで、さらに、今生での自分の持つ問題や全ての諸問題についてマインドフルで、気づきを持っている人です。これはそのような者が、これらの問題の全てを避けるためにさまざまな予防策を取ろうとする動機を与えます。もし、無常や諸問題についてただ忘れる事で、死について忘れる事で、それらを退散させる事ができるのであれば、とてもいい事です。素晴らしい事です。しかし、事実はそうではありません。死んでいくという事実を、自分の人生で問題を持っているという事実をただ無視しても、これらの事実を消滅させることはありません。そのため、自分の諸問題に気づき、それらと現実的に向き合って、問題を取り去るためのさまざまな方法をとる事の方がより良いのです。これがスピリチュアルな修行/実践に関わる事とは何かということです。

仏陀ご自身、これらの方法を伝えるさまざまな機会に、無常について教え、何事も変化しないものは無いということについて教えました。彼のすべてのスピリチュアルな探求の旅は無常を悟る事で始まりました。そして、同様に、その人生が終わりにきて死んで行く時に、それもまた、みんなに無常の事実をみせるというコンテクスト(文脈)の中で起きたのです。

四聖諦

しかも、諸問題はどこからともなくやってくるのではありません。何の理由もなく起きるのではありません。むしろ、全ての真の問題と不幸は、真の原因により生起します。具体的には、私たちの衝動的な行動と心を乱す感情と態度のことで、言い換えれば、私たちの業(カルマ)と煩悩のことです。心を乱す感情と態度により衝動的に行動する事が全ての問題をもたらすのです。

さて、私たちの問題の全ての原因である二つの因の中で、衝動的な行動のその根本には心を乱す感情と態度(煩悩)がある事が分かりました。そして、仏教経典で説明されている八万四千のさまざまな種類の心を乱す感情と態度を調べてみると、それらは全て一つの源から生起していることが分かります。すなわち、真に確立した存在があるとか、真に確立された自性があるのだと私たちに思わせてしまう無知(無明)です。

真に確立した自性とは − それが私たち自身の事であれ何であれ − そのようなものは残念ながらありません、それでも私たちは事物が真に確立した自性や存在を持っているかのように思い込んでしまいます。ですから、そのようなものが真に確立した自性としてはあり得えないのだと気づき、判別できれば、ある事物がそのような自性を持っていると把握することを消去する解毒剤となれます。

私たちが真に確立した在り方などはあり得ないとの見解を得ることができれば、あるいは何事も真に確立された自性を持たない(無自性)と理解できれば、その見解を「真の(菩提)道」や「正道」と呼んでいますが、四聖諦のひとつです。これは高度に悟った者たち「聖者(aryas)」が、真であると、正しいと見なした心の道(菩提道)のことで、その者たちが解脱や悟りを獲得することへと導くのです。

私たちが真の菩提道を持てば − 具体的には自性を持つものは何も存在しない(無自性)との真に確立した正しく判別する認識(慧 prajna)を持てば − そうすれば私たちはどのようなものであれ心を乱す感情や態度(煩悩)を持たないでしょう、何故ならばそのような心を乱す感情や態度は、ありもしない在り方の投影やそれを信じることを土台(基)にしているからです。心を乱す感情や態度を持たなくなれば、私たちは衝動的に行動しません。そして、衝動的に行動しなくなれば、自分自身に問題を生み出す事はありません。私たちの経験にこれ以上問題が生じなくなる状態は、「真に停止/滅すること」または「真に消滅すること」として知られています。

これが、高度に悟った者、聖者により真であると見なされた四つの事実の提示です。これらが四聖諦です。最初の二つの真理(諦)が、何が心を乱すのかについて、つまり真の問題(苦諦)とその真の原因(集諦)、衝動的な行動や心を乱す感情や態度についてです。最後の二つの真理に注目すると、それは解脱とは何なのかについてですが、それからその原因を永久に取り除く事を通して、全ての問題の真の止滅を達成(滅諦)したいと願望するのです。そして、その方法は真の菩提道を発展させる事(道諦)です。こうして、高度に悟った者たちが真であると見なしたこれらの四つの事実を、私たちも認識し理解するのです。

貴重な人間への輪廻転生により、私たちが持っている素晴らしい取り組みのための土台の上に、さらに築いていくには、今ここで、これらの四聖諦を悟るために、自分にできる限りの努力を尽くす必要があるのです。そうすれば、この転生において得た機会を適切に使える事になります。私たちが心の有益な習慣として、真に確立されたものはあり得ないとの気づきを、常時、安定したものとして築き上げていけば、私たちは自分の問題を永久に、完全に取り除いたという事になります。

慈悲心を発達させる

さて、全ての問題を自分自身からだけでも取り除く事はとてもいい事ですが、それでは十分ではありません。何故なら、私は一人で、他者は数えきれないほどいるからです。どれだけ多くのものがいるのかを決して数える事はできませんが、誰もが問題を持っていますし、全てのものが何らかの形で苦しんでいます。ですから、自分たちだけのために、努力する事は不公平です。みんなのための解決策を探さなくてはなりません。

思い起こしてみれば、限られた心(マインド)を持つ全ての他の生き物(有情)が、私たちにいかに親切であるかがはっきりとしてきます。実際、他者より親切なものはいません。諸仏陀の親切について、そして有情の親切について考察すると、両者が平等だと気づきます。例えば、蜂蜜が好きであれば、その蜂蜜がどこから来たのかを知らなくてはいけません。蜂蜜は多くの蜂から来たもので、蜂は蜂蜜を作るために、たくさんの仕事をしなければなりません。より多くの花の周りを飛び、花粉を集め、巣に蜜を分泌して貯めていきます。もし好きな蜂蜜を食べたいとの気持ちを一度でも持つことがあれば、これらの小さな昆虫たちの仕事と親切に頼らなくてはなりません。同様に、私たちのうちの何人かが肉を食べようと思えば、例えば病気や弱っている時などで身体に強さを与えてくれる食べ物が必要な時などに、その肉はどこから来るのでしょうか?それは私たちに強さと栄養を与える肉を、その命を犠牲にして提供してくれる動物から来るのです。

ですから、自分自身の問題から自由になろうとの強い決心を持ったからには、その態度を他者に対しても向ける必要があります。私たちが自分の問題から自由になろうとの決心を持つように、同様に、今度は、他のみんなもまたその問題から自由になりますようにと願う事を望む必要があります。そのような態度は「慈悲 compassion」として知られています。

もし私たちが自分の諸問題について真剣に考えなければ、そしてどれほどそのような問題を持ちたくないかについて真剣に考えなければ、そして又、それらから自由になりたいとの決心を持たなければ、他者の問題を真剣にとらえる事は非常に難しいでしょう。そのような決心を持たずして、他者がその問題から自由になれますようにと願望する誠実な慈悲心を発達させることはできないでしょう。例えば、ある役人がいたとしましょう、その人がキャリアを積むために非常に苦しんできて高い地位にたどり着いたのであれば、その人は他者の諸問題に対して同情心や慈悲心を持てるでしょう。全人生を楽に過ごしてきて、苦しむ事の意味さえ知らないまま役人になった人よりも、そのような人は他者を助けるのに遥かにうまく対応するでしょう。

菩提心

私たちが他者が苦から自由になる事を願う態度は「慈悲 compassion」と知られています。みんなが幸せである事を望む態度が、「慈愛/親愛 love」の定義です。みんなが幸せで、問題から自由になる事を願うことを思えば、そして、みんなが自分に対してこれだけ親切なのですから、表面的ではなく実際に何かをするべきだと、彼らが全ての問題から自由になる事を手助けしようと私たちが決心すれば – この責任を取ることが「非凡な決意」として知られています。

利己的な関心事にばかりに捕われていれば、どの仏陀の良き資質についてのどのようなさとりを得る事も、それを発展させる事もできません。逆に、私たちが利己的な事に目を背け、他者の苦境について関心を持ち始めれば、それが自分自身が悟った仏陀になるための土台となります。利己的な関心事で、自分のために財産を貯めようと、私たちは殺人や、窃盗などに携わることもあります。そのような不器用な方法はたださらなる問題だけをもたらすだけですが、それらすべての根本にあるのは利己的な考え(自己本位)です。

釈迦牟尼仏陀は他者の福利のみに関心を寄せた結果として、悟りの境地を、全面的に明瞭な心となり完全に進化した境地を得ました。実際、全ての時(現在、過去、未来の三世)にまたがる全ての仏陀は、他者への思いを持つ事を土台として、自分自身の最善の可能性を全て悟る境地に達したのです。ですから、私たちが現実的になれば、自分たちが「みんなに幸せをもたらし、みんなが全ての問題から自由になれるようにする」との非凡な決意を持ったにしても、どれだけそう願おうとも、自分にはそれを行う能力がないと分かります。誰もがその問題から自由になり、幸せを得ることを助ける能力は、そのような能力は、仏陀のみが持つのです。

ですから、他者の利益(りやく)に真心から貢献する事が必要で、できる限りそうするためには、自分が仏陀の悟りの境地を達成する事だと真心から献身する事が必要です。それが「菩提心の目標」として知られています。

菩提心の目標を持つ献身的な心で、花を捧げるとかの簡単な供養をしたとしても、その供養の意図がすなわちみんなを利益するためで、そして、できる限り悟りを得ようとの意図であれば、その様な簡素な行動からのポジティブな可能性の蓄積は膨大なものとなれます。実際、私たちの目標がみんなを利益するためであれば、ご利益はその目標に比例します。それは生きとし生けるものの数と同じぐらい広大です。このようにして私たちの心を純粋に誠実に捧げる利益は、仏陀に黄金と宝石に満ちた全世界を供養するよりもはるかに偉大なものです。宇宙の全ての生きとし生けるものに食べ物を与えようとする行いよりも、菩提心の目標を持つそのような献身的な心(ハート)をほんの一瞬だけでも持てる利益の方が、さらに偉大なものです。

私たちが宇宙の誰もに与える食事は、ただ一度だけ人々の飢餓を満足させるだけだということを考えると、この論理は確立されます。彼らはまたすぐにひもじくなるでしょう、彼らの飢餓の問題は引き続きます。しかし、私たちが菩提心の目標を持って、全ての時において、全てのものの全ての問題を避けようとして、できる限りの事をするために悟りを達成しようと願望すれば、これはみんなの飢餓を回避するだけでなく、彼らの問題を完全に止滅させる能力を私たちにもたらすでしょう。

結びの言葉

ですから、菩提心の目標を発展させることに向かうことの一歩として、私たちはどのようなものも傷つけないと強く誓う必要があります。それが誰であれ、他者を傷つける事の不利な点や欠点の全てが分かれば、そうしない事を誓います、それが多大な利益をもたらすのです。結果としてそれは非常に称賛に値するふるまいの類いとなります。誰をも傷つけないとの強い誓いは私たちみんなができるスピリチュアルな方法です。スピリチュアルな修行は何かとても高尚なもので遠くにあるものだと考える必要はありません。

手短に言えば、スピリチュアルな(精神面での)修行者になる事は、何か風変わりな人生を生きる事ではありません。歴史上、多くの在家のもので偉大なスピリチュアルな修行者の例が数多くあげられています。私たちが古代インドにおける八十四人の高度に達成した大成就者たちの伝記を見てみると、その中には在家の者であった者が数多くいるのです。

年老いていても、気落ちする必要はありませんし、年寄りはスピリチュアルな(精神面での)修行者になれないと考える必要もありません。過去の例をみてみれば、在家のシュリジャティ(Shrijati)は、八十歳の時にスピリチュアルな修行者になりました。彼はその生涯で解脱した者、阿羅漢になれました。ですから、歳を取りすぎているという事はありません。

他方では、若くてもただ軽率でもいけません、自分のスピリチュアル(心を育成する精神的)な修行に意を決して、どのようなエネルギーであれ持っているものを活用するべきです。そして、これらの予防策となるスピリチュアルな方法を年老いてからやるものだと、先延ばししても良い事だと考えてはいけません。何故なら、自分に死がいつ訪れるのかを知ることはできませんから。さらに、老後というものは私たちみんなにある日突然やってくるものでもあるのです。それがやってくると、突然、自分の人生は過ぎ去っていったかのように感じるのです。

簡単に自分にできるポジティブな事が数多くあります。外国で鳥にえさを与えるために非常に努力して、多くの資金をつぎ込む人たちを知っています。家の外にえさ用のかごを置いて、毎日えさを置くために何千ものお金を使います。実際、鳥がえさに飢えないように、休暇も取らないほどです。これは素晴らしい実践で、見ているだけで私は幸せになります、何故ならこれが本当の菩薩の修行の種類なのです。巡礼者としてインドに来て、鳩にパンをあげたり、色々な種類の鳥たちにご飯をあげたりするチベット人の例も多くあります。これは長寿をもたらすために素晴らしい修行の一つです。

ここで、今晩話したことをまとめてみましょう。主要な点は、

  • みんなの利益(りやく)のために継続的に努力する親切で暖かい心(ハート)を育んでいくこと

  • 誰をも、何をも決して傷つけない事、そして害や問題の原因を決して作らないこと

これらが素晴らしいスピリチュアルな修行のための主要点です。私たちは素晴らしい人間への輪廻転生の中で持っているこの取り組みのための土台(基)を十分に活用する必要があります。それは菩提心の目標と共に、他者に心(ハート)を純粋に捧げる事により、他者のために悟りを達成するために活用する事です。このようにして、全面的に明瞭な心と完全に進化した状態を、すなわち完全に悟った仏陀の境地を達成するのです。