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アレクサンダー・ベルゼン博士の仏教講義録書庫

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菩提心を培うための因果の七秘訣の教え

アレクサンダー・ベルゼン
2000年 1月18日 ドイツ ベルリン

はじめに

私達には、仏法に従うことを可能にする有暇具足を備えた、貴重な人間としての人生があります。とは言え、これらの特権と機会は永続するわけではありません。ですから、私達が持っている機会を充分に生かす必要があるのです。

貴重な人間としての人生を生かすための最善の方法とは、目的としての菩提心を培うために利用することです。目的としての菩提心とは、心相続(意識の連続体)においていずれは到達することになる将来の悟りに照準を合わせた意と心のことです。それは、ふたつの意図を伴います:出来うる限り迅速に悟りを達成することと、それにより一切衆生を益することです。

菩提心を培う場合、逆順でふたつの意図を培います。最初に、単に人間ではなく無量なる衆生を益するよう充分意図します。これは愛と慈悲、殊勝なる決意によって向上させられますが、これについては、この講話の後半でお話することになります。その次に、最も効果的に彼らを益するために悟りを得て仏陀になろうと充分に意図するのです。あらゆる制約と欠点を取り除くには悟りを得る必要があります。なぜなら、それらのせいで他者に尽くすことができなくなっていることがわかるからです。例えばもし相手に腹を立たとして、そういった場合にどうすれば相手のためになれるかということなのです。さらにあらゆる潜在性を実現するためにも悟りを得る必要があります。ですから、目的としての菩提心を養う場合、支払義務のある重税のように、それが最高の境地だからではなく、他者を助ける必要があるから何よりも優先して仏陀になりたいと望むということなのです。

目的としての菩提心を生起するためには、ふたつの主な方法があります。ひとつは因果の七秘訣の教え(rgyu-bras man-ngag bdun)によるものであり、もうひとつは、自他についての態度を同等とみなし交換すること(bdag-gzhan mnyam-brje)によるものです。さあ、ふたつの方法の最初のものを見ていきましょう。

偏りのない心を育む

因果の七秘訣の教えには、目的としての菩提心の実際の生起という七つ目の階梯の因としての役割を果たす六階梯があり、全七階梯を勘定に入れない前提段階から始まります。それは、ある特定の人に魅了されたり執着することや、それ以外の人から拒絶されること、これまでその人に無関心であったりすることを克服するための偏りのない心(btang-snyoms)を養うことです。このような前提段階はすべての人に等しく開かれています。

あらゆる存在が同等であることを理解することは、すべての人に等しく開かれているということのためには必要で、心相続や意識の流れは始まりも終わりもないという理解からもたらされます。したがって、誰もが友だったことがあり、誰もが敵だったことがあり、誰もが見知らぬ人だったことがありましたが、その状態は常に変化しているのです。その意味では、誰もがみな同じです。

このような考え方に隠れた、理解しなければならない重要なこととは、始まり無き意識です。これは仏教における土台となる前提です。転生は体験の連続体と関わりがあります。意識の流れというのは体験の連続体です。それらは単一のもので、人間、動物、男性、女性というような固有のそれぞれの特性はありません。いかなる個々の転生においても、意識の連続体が具現化する生命の形態と性別は、過去の行為、つまり業に左右されます。

この理解に基づけば、確実にあらゆる人が慈愛を育めるようになるので、これは菩提心を培うことを可能にするために根本的に必要な理解なのです。例えば、他の生き物のことをただの蚊だと思ってはなりません。そうではなくてこの生き物を、その業により今生で蚊という形態をとることになった、無限に続いている固有の意識の連続体とみなすのです。こうすることで、人間に対するように蚊に対しても同じ位に心が開かれます。菩提心を持って確実に一切衆生を益することを意図する決意から、その力が引き出されます。もちろんのことながら、それは容易なことではありません。

一切衆生を母であったと認識する(知母)

ひとたび偏りのない心を持って一切衆生を個々の意識の流れとみなすことができれば、 – 今生でそのような形態を否定することはないので、 – 因果の七秘訣の瞑想のひとつめの階梯を上る準備ができているのです。これは、それぞれの生き物が私達の母親だったことがあると知るということ(知母、mar-shes)です。ちょうど今生で母親がいるように、精子と卵子から生まれて来る各人生においてもまた私達には母親がいたというような道筋で思考するのです。始まりの無い転生という理論から見れば、誰にでも無始時以来やはり母親がおり、 – そしてまた彼らの母親だったこともあるのです。 また、父親だったことも、親友だったことなどもあるのです。

すべての存在を母親だったことがあるとみなす際に、注意する必要があるのは、誰でもが持っている本来備わった個性としての母親であると考えることのないようにすることです。なぜなら、それは少し疑わしくもなりかねないからです。空性、つまり本来備わっている個性など存在していないという見地を決して失わないようにしようとせねばなりません。

誰でもが母親だったことがあると心底知ることで、他者との関係の仕方が変化します。さあ、誰に対してもの単なる偏りのない心を持つ以上を目指していきましょう。誰とでもとても親密で、温かく、誠実な関係を持っていた – まだ持つことができる – と知るのです。

母の愛の慈しみ深さに思いを馳せる(知恩)

七階梯の二番目は母の慈しみ深い愛情に思いを馳せること(知恩、drin-dran)です。この段階は多くの西洋人が瞑想する際に問題の多い段階です。なぜならインド人とチベット人は常に今生の母親の例を挙げるからです。そういった社会では、ほとんどの人は西洋社会に比べ、神経症的で、やっかいな関係はずっと少ないようです。もちろんその真偽のほどは個々の事例で異なります。けれども、私の見た所によれば、チベットとインド社会で29年間過ごしたところでは、成長した子供とその母親の間には西洋社会よりも神経症がはるかに少ないように思われると言えるのではないでしょうか。

瞑想におけるこの段階は、母親が子宮に私達を宿していたところまでさかのぼって、母親がいかに慈しみ深い – 亡くなっているのならば、慈しみ深かった – かに思いを馳せることです。そしてこれを拡大して、どれほど皆が過去生で同じような慈しみ深さを示してくれていたかを考えるのです。

西洋人にこれを教えると、多くの人はいいでしょうと言ってくれますが、仮にあなたの母親に問題があるのなら、父親の代わりに、親友、そうでなければ誰でもよいから心からの慈しみ深さを示してくれた人に思いを馳せてもいいのです。こうすれば、この瞑想をしようとして行き詰まったりすることにはならないでしょう。このアプローチは役に立つと私は思います。しかしながら(However)、もし母親との関係に問題があるのなら、それを扱い、ただ無視しないことが非常に重要だと思うのです。母親と健全な関係を持つことができないと、他の誰とでも健全な愛情のこもった関係を持つのが非常に難しくなるでしょう。必ず問題となってしまうのです。ですから、その関係がかつて、あるいは現在どれほどひどかろうとも、母親との実際の関係を見つめ、その慈しみ深さを知ろうとすることがきわめて重要だと思います。

まずは、理想的な母性愛を見てみる必要があります。伝統的な教典はそれについての描写であふれています:例えば、多くの動物に母性愛を見い出すことがます。母鳥は、たとえどんなに凍えようがずぶ濡れになろうが卵を温め、卵が孵ると、虫を捕まえ食べやすいようにちぎってあげ、呑み込むことなく雛に餌を与えます。これは実にまったく驚くべきことです。

もちろん動物や昆虫の世界では、母親が我が子を食べるという例もありますが、それでもなお子供を産むという大仕事をやってのけているのです。それが生物学的な母親であろうが、代理母であろうが、誰かが私達を子宮に宿してくれたのです。たとえもし試験管ベビーであったとしても、誰かが試験管を見守り、適温に保ってくれていたのです。母親が身ごもるのを望んでいたかどうかは関係ありません。私達を宿し続けてくれたことは信じ難い程の慈しみです。;母親にとっては楽なことではないのです。実際の誕生に際しては激痛を経験しますし、その上、乳児になれば、誰かが真夜中に起きて、授乳し、面倒をみなくてはなりませんでした。;さもなければ私達は生きられなかったのです。こういったことは伝統的な教典で重要視されています。

仮に母親のことで困っているなら、ダライ・ラマ五世のラムリムの経典にある、グル瞑想に由来する方法に応じて手がかりを得ることができると思います。多くの古い経典では、優れた資質のみを有する仏教の教師を探し出すのはまず無理であると説かれています。理想的な仏教の教師などひとりもいないでしょうし;誰しも長所と短所とを併せ持っているはずです。仏教の教師についての瞑想でやりたいことは、途方もなく篤い敬意と啓発、感謝を培うために教師の善き資質と慈しみに焦点を当てることです。こうして、自らこのような善き資質と慈しみを養うよう動機づけられるのです。

ダライ・ラマ五世はこのように実践する過程で、教師の短所や欠点を否定する必要がないのだと説きました。そうすることは批判的な見方ができないということでしょうが、私達は短所を認めつつも、とりあえず脇に置きます。なぜなら教師の欠点のことを考えることは愚痴っぽいネガティヴな態度につながるだけだからです。これでは一向に啓発などされないでしょう。優れた資質と慈しみに焦点を当てることによってのみ、私達は啓発されるのです。

まずは短所を認めます。けれどもこれが真の短所なのかどうか、私達自身の資質を単に投影しているにすぎないのではないかということを率直に検討する必要があります。仮にその短所が単に投影されていて実際のものでないなら、それらを完全に撤回します。そうしたら、仮想されたものではない短所は、教師が持っている現行のものなのか、過去のものなのに私達が忘れたくないものなのかどうかを吟味する必要があります。もしその欠点がもはや現在のものでないなら、こだわるのをやめることです。:もうどうでもよいのです。ひとたび現時点で実際に欠点であるものについてはっきりしたら、そうです、それはその人の今の欠点なのです。すると、同じようにそれをとりあえず脇に置き、代わりに、善き資質だけに焦点を当てることになるのです。

母親の慈しみを見ていくにあたっても、同じようなやり方が適しており、うまくいくと思います。誰にも理想的な母親などいません。私達自身が親であれば、理想的な親であることが信じられないほど難しいとわかるので、自分の両親が理想的であることを期待するはずもありません。したがって、母親が持っている、あるいは持っていた欠点と短所を見て、そのような短所をもたらした原因と状況を理解しようとするでしょう。ちょうど、どんな意識の流れも本質的に蚊というわけではない(し、本質的に困らせようとしているわけでもない)ように、彼女も本質的に悪人というわけではないのです。私達は自らの短所を母親に投影しているか、ただ古い昔のことにこだわっているだけではないことを確かめ、そうしたらすべての仮想上の欠点は、現在のものも過去のものもすべてとりあえず脇に置くのです。そうなんです、彼女には欠点があるけれども、みなと同じなのです。:私達は誰もが欠点を持っているのです。ですから、彼女が私達に示してくれた善き資質と慈しみを見つめるのです。

ある西洋の仏教の教師が、 – 正確に誰であったのか忘れてしまいましたが – 私が考えている瞑想法が非常に役立つと薦めてくれたことがあります。今この時点で母親のネガティヴな資質を脇に置いて、5年か10年単位で自分の人生を振り返るのです。5分でも30分でも1時間でも好きなだけ時間をかけ、5年間か10年間ずつ、母親が自分達に対して慈しんでくれたあらゆることを振り返り、思いを馳せるようにします。まずお腹の中にいる時期から5歳になるまで、母親が汚れたおむつを取り替え、お乳や食べ物を与え、お風呂に入れ、なんでもかんでもやってくれたことを回想します。さらに、5歳から10歳、などと思い起こします。彼女は学校に連れていってくれました。 – ひょっとすると宿題を手伝ってはくれなかったかもしれませんし手伝ってくれたかもしれませんが、おそらくは私達のために料理をし洗濯をしてくれました。10代になると、きっとお小遣いをくれたでしょう。いかにひどい母親であったとしても、人生のそれぞれの時期に示してくれた疑うべくもないたくさんの慈しみ深さがあります。

さらにまた、父親や親戚、友人などについても同じようにします。これは瞑想に非常に役立ちます。「誰も私のことなんか愛してくれていない。」と思う時に感じることがある抑うつ状態に対する、特に強力な解毒剤なのです。このようにして、もし今生で母親の慈しみをよく知ることができれば、誰もが私達に同じように優しかったのだと認識する助けになります。理想的な母親などひとりもいなかったのです。 – そりゃあ、ある時は私達をひどく悩ませることもあったかもしれませんが、慈しみを示すこともあったのです。

母の愛の慈しみ深さに報いる(報恩)

七秘訣の中の三つめの階梯は、私達が受け取った母親の慈しみ深い愛情に報いようとする望みを育むこと(報恩、drin-gso)です。このためには、私達に示してくれた母親の慈しみ深さに思いを馳せることについて、単に要点を押さえただけの瞑想から、さらなる改良したものを作ることもできます。あらためて、人生の5年間か10年間を振り返り、母親に対して私達はどんな風に恩返しをしてきたかを調べてみるのです。父親や友人、親戚などについても同じようにします。

もしどれ位の愛情と世話を受けていたかについてと、どれ位私達の側から報いてきたかについてを比べたら、私達の多くは与えたものよりはるかに多くを受け取っていたのを知ることになります。ここで大事なことは、その際に罪の意識に苛まれないことです。そうなるとしたら、それは典型的な神経症的な西洋の反応と言えます。大事なのは菩提心の瞑想の次なる階梯で役に立つことであり、受けた恩を認識してその恩に報いたいと願う気持ちを培うことなのです。

単に要点を押さえただけの瞑想に対するこのような改良版が、実際に何かを感じるために本当に心を動かす大いなる助けとなるのだと私にはわかります。それは非常に大事なことだと思います。愛と慈悲のこれらのすべての瞑想を実践し、出かけて行って他者を助けている実に多くの西洋の仏教徒を見てきましたが、両親とひどい関係でそのことにより行き詰まっています。そのような関係に取り組み、単にやっかいだからという理由でそれを避けることのないようにすることは、本当に多いに役立つと思います。

実践に専念するために有用だと思われる方法

これらの各段階で大事なことは、すべての衆生に対する実践の機会を開き、広げることです。それぞれの段階では、もちろんささいなことから始めてもよいのですが、徐々に機会をそれ以上に広げていく必要があります。偏りのない心を土台として、一切衆生を個々の心相続とみなしてこれを実践するのです。私は気がついたのですが、このように実践するための効果的な方法は、目を閉じて抽象的に「生きとし生ける衆生」のことを考えながらただ座って瞑想することではないのです。思うに、もっと効果的なのは、感受性の訓練で薦めている方法と同じような実践をすることです。

要するに、写真をじっと見ながらまずはさまざまな人 – 友人、嫌いな人、見知らぬ人に向けて、こういったポジティブな態度を培うようにしてみてください。さらに瞑想グループにおいて、自分の周りで輪になって座っている実際の人々を見ながらそれらを養ってみてください。さらに、地下鉄やバスで居合わせた人でやってみてください。こうして、培おうとしているポジティブな態度を他者に向けて実際に適用するのです。

また単に理論上の意識においてではなく、それらを実際に目にした時 – 動物や昆虫などにそれを応用してみるのです。そうするにあたっては、例えば、時にチベット人の間で見られるもののような― つまり人間よりも昆虫の方に優しくする方が簡単だという極端を避けるようにすることが必要です。寺院の真ん中に蟻がいたら、皆がとにかく傷つけまいとするような極端に走ってしまうのです。その上、人間、例えば彼らの寺院を訪れ、そこで目にすることについて何か知ろうとするインド人や外国人に対して、同じような気遣いや優しさを見せないことがよくあります。私達はここで適切な視点を持ち続けなくてはなりません。

人を助けるより蟻を助ける方がたやすいことだと言う人もいるかもしれません。蟻は言い返しませんし苦労をさせないのに対して、人はしばしばそうするからです。蟻ならただ拾い上げ、追い出すことができますが、いらいらさせることになったらからと言って人を実際にそうすることはできません。いずれにせよ私の言いたいことは、多くの人が非常に抽象的な方法 – 「一切有情」 – によってこのような瞑想をし、「現実世界」の生身の人間には全く適用されていないのだということです。このことは仏道に沿って進んで行くにあたって大きな問題を創り出してしまいます。

大慈

衆生を母親だったことがあると認識し、母親の愛の恩に思いを馳せ、その恩に報いようと思うとき、自ずと突き動かされる慈愛の気持ち(yid-ong byams-pa)を抱きます。これは、出会う人誰にでも親密で温かな気持ちが思わず湧き起こるということです。この気持ちを培うために、また別の瞑想段階は必要はありません。それはいとおしみ、心を砕く愛(gcer-zhing pham-pai byams-pa)とも呼ばれており、誰かを大切に思うこの愛はその人の幸福に心を砕き、もしその人に何か悪い事が起きたら非常に嘆き悲しみます。

心温まる愛に基づき、四段階目の大慈(byams-pa chen-po)の瞑想に入ります。愛は他の誰か、一般的には誰か好きな人が幸せであることを望む(与楽)ことです。しかしながら大慈とは、誰でもが幸せで、幸福の因を持てるようにと願うことです。幸福とその因の両方を願うことが本当にとても重要です。これは、幸福は因から来るとの完全な理解によるものであり、単に神の恩寵や幸運のお陰でもなく – 私(me)のお陰でもない、ということを意味しています。

幸福の因は、業についての教えの中で教示されています:執着や怒りなどなしに建設的に行動した場合に、幸福を経験するということです。ここで「この人に幸福とその因がありますように。幸福を経験できるために、本当に建設的で健全なやり方でこの人が振る舞いますように。」と思う必要があります。

すでに明らかなように、このような菩提心の瞑想において、この段階から皆を助けるために仏陀になろうと努力するわけですが、彼らを助けるために担うであろう役割を拡大し過ぎではいけません。他者にこの方法を示すことはできますが、本人が自力で幸福の因を築き上げる必要があるのです。

大悲

そして五段階目は、誰もが苦とその因から離れるようにと願う(抜苦)こと:大悲(snying-rje chen-po):になります。これは、彼らの苦が因から来て、苦を取り除くためにはそのような因を取り除く必要があるということを同じように完全に理解した上でのことです。これもまた、非常に現実的な見方です。慈と悲は、「誰もが苦しんでいてかわいそうに思う。」というような、単なる情緒的な感情などではありません。それよりむしろ、業の因果を理解することを伴ったものなのです。

大悲は、他の多くの点で一般的な慈悲というものを凌駕しています。まず、大悲というものは、特定の人にだけではなく無量なる衆生に平等に向けられています。ふたつめに大悲は、あまねく影響を及ぼす行苦(khyab-par du-byed-kyi sdug-bsngal)つまり、無明からもたらされ、無明と混じり、さらに無明を生み出し、このようにして苦を永続させる五薀によって輪廻転生することから衆生が解き放たれるようにと望むことです。このように、他者が肉体的な苦しみ(苦苦)や変化の苦しみ(壊苦)から解き放たれることを単に願うだけではありません。壊苦とは、決して永続せず、決して満たされることのない通常の世俗の幸福のことです。大悲は、衆生がこのような問題から逃避するために楽園に行くことを願うことではありません。三つめに、大悲は無量なる衆生が行苦から解放されることが可能であるという固い信念に基づいています。

思いやりの心は、出離と同じ類いの態度として描かれることが常です。出離は、私達自身の苦に向けられた態度であり、そこから解き放たれることを望むことです。出離に基づけば、他者への共感を培うことができます。私達のすることとは、同様の態度を、他者と、他者の苦やその因と、他者がそこから解放されることを望むことの方へと振り向けて行くことです。

私達は自らの苦に思いを致し、そこから解き放たれたいと望まない限りは、他者に共感し、彼らに対し真に思いやりの心を感じるのは難しいものです。私達が苦によって傷つくのとまったく同じように、実際、他者も苦によって痛みを経験し、その苦が彼らを傷けるのだということを理解しなくてはならないのです。この理解は、私達自身の苦が苦痛を与えるということを認めるかどうかで決まるのです。もしそうでなければ、真剣に他者の苦を取り除こうとはしないのです。覚えておいて下さい、私達は自分達にとても優しくしてくれた母親が、幸せで苦しみのないことを願っています。母親やその他の人たちを扱う瞑想を始めるので、瞑想は実際に、そのことに対しての何らかの感情が伴うのです。

低い自尊心を和らげる助けの手を差し伸べる

まずは自分自身が苦とその因から解き放たれることを望むのであれば、思いやりの心を真摯に養うしかない、と経典で説かれているのとまったく同じように、私達は愛についても同じ法則をあてはめることが出来ると思います。これは特に、低い自尊心に苦しむ人の苦とその因に適しています。低い自尊心は特に西洋の現象であって、チベット人やインド人の間ではきわめて稀なことです。真剣に他者が幸福で、かつ、その因を持てるようにと望む前に、自らが幸福で、その因を持てるようにと真剣に望むことが必要なのです。もし、私達が幸せであるに値しないと感じていれば、なぜ他の人が皆幸せであるに値するでしょうか?

ですからもし低い自尊心に苦しんでいるのなら、自分自身の幸せを望むことを瞑想の一段階として支障なく加えることができると思います。これはきわめて重要だと私は感じます。誰でもが幸せになる価値があるという、このような考え方に慣れることが、自らに仏性を思い起こさせてくれるのです。私達は取り柄が全くないわけではありませんし;救いようもないほどの極悪人などひとりもいないのです。みな仏陀になり、他者の役に立ち、幸せになったりする可能性を秘めています。

もう一点:愛と思いやりの心は、上座部仏教やその他の小乗仏教学派においても養われます。しかしながらそこでの愛と思いやりの心の瞑想のやり方は、ここで扱っている七秘訣のような、恩に思いを馳せるといった根拠に基づいた愛と思いやりの心を感じることの強化を助長する段階を踏んではいきません。とはいえ、愛と思いやりの心の瞑想が上座部仏教の伝統に抜け落ちていると考えるべきではありません。ただし、菩提心の次の段階は上座部仏教にはありません。

殊勝なる決意

さまざまな翻訳者が、六番目の次なる段階をいろいろに訳します。「純粋な無私の望み」とそれをする訳者もいますし、ダライ・ラマ法王猊下は「普遍的責任」という表現を使われます。私がいろいろと自分自身で訳してみましたが、今のところ、「殊勝なる決意(lhag-bsam)」が気に入っています。これは、他者の苦について実際に何かをする責任を取ることです。仮に誰かが湖で溺れていたら、私達はただほとりに立って「ちっちっ、どうかこんなことが起こりませんように。」とつぶやくだけではありません。実際に飛び込んで、その人を助けようとすることが必要です。同じように菩提心のこの瞑想では、出来る限り助ける責任を負うという観点から考えるのです。

発菩提心

因としてのこの六段階の趣旨に基づき、七段階目は結果としての発菩提心(sems-bskyed)となります。感情と態度が現時点では限界があり混乱している状態で、どうやれば最大限他者の役に立てるかと考えてみれば、実際大した役には立てないことがわかります。もし私が自分本位で忍耐力がなく、ある人に引きつけられるかと思えばそれ以外の人には腹を立て怠惰であるなら、もし年がら年中疲れてしまうなら、もし他者を真に理解できないなら、もし適切にコミュニケーションすることができないなら、もし他者を恐れ、嫌われ拒まれることを恐れているなら、 – 実のところ私が可能な限り手助けようとしても、これらすべてのことに阻まれしまうのです。ですから真に助けとなりたいなら、こういったことを取り除くことが本当に必要なのです。他者を益するための自らの才能と能力と仏性という特性を実際に生かせるように、真に自分自身に取り組み、このいったことを取り除くのです。常に「できる限り」ということを肝に銘じることです。 – 私達は全能の神になるつもりなどありません。この考え方の趣旨に基づき、でき得る限り充分に助けるために、意と心を仏陀となることに向かわせるのです。これが発菩提心です。

菩薩行

ひとたび菩提心を生起したら、自らの限界があるにせよ、今できるだけ他者を助けようとします。これは、因果の七秘訣の菩提心の瞑想において予備段階から打ち立てられた、他者を益する責任を取る殊勝なる決意を持つからです。

これは、他者と向き合い、彼らが 例えばホームレスであるといった問題を抱えていることがいつわかろうとも、その人のことを単なるホームレスとはみなさないということなのです。彼らと会う際には、生得的に貧しく怠惰であるとか、あるいは私達が投じるいかなる価値判断であっても、そういう基準で考えないようにします。そうではなくてむしろ、彼らは今生でだけ、また今生のこの特定の時点でだけこのようになっているのだと理解するのです。一方、彼らの心相続は無始であり、ある時点では私達の母親だったことがあり、優しく世話をしてくれたことがありました。私達を身ごもって、おむつを換えたりしてくれたわけですから、心からこの恩に報いたいと願います。彼らが幸せになりその因を持ち、問題とその因から解き放たれるようにと望むのです。それについて何かをするという責任を取るのです。

私達は一体何をする必要があるのでしょうか? 自分自身の至らなさを克服し、そのような人々を助けるために帰宅して瞑想する必要があるけれども、そのような人たちを助けるために現実には何もしなくていいということではないのです。もちろんのことながらもっと瞑想をする必要がありますが、瞑想をすることでその機会に、臆病、優柔不断、慳貪を克服し、実際に何か、せめて笑顔だけでも彼らに差し出すよう – 少なくとも何か(something)をするよう動機付けられるのです。

言い換えれば、できる限り限界を克服し、今手助けるために可能性をできる限り生かすようにと直ちに自分を駆り立てる、殊勝なる決意を使うのです。もちろん帰宅したら自らに取り組んでいく必要がありますが、ホームレスの人を忘れないようにしましょう、ただし帰宅したら瞑想しましょう。決意が真剣であれば、忘れずにいられます。

自分自身に取り組むための最も堅固な動機は、助けを必要としている他者と出会う際にその都度訪れます。地下鉄の駅の脇で、老女が冬の物乞いをして冷たい地べたに座っているのを見て、もしあれが自分の母親だったとしたらどう思いますか? もしあの老女が、冷たい地べたに座って物乞いをしている今生の本当の母親だったとしたら、ただ脇を通り過ぎているでしょうか? あるいは、地下鉄で、ホームレスの簡易新聞の物売りをしている少年はどうでしょう、もし自分の息子だったとしたらどう感じますか? この少年には両親がいます。これは非常に大事なことです。インドではハンセン病患者やその他の奇形の人たちを目にして、普段そのようなハンセン病患者に家族がいるなどと思いもしませんが、彼らにもれっきとした家族がいるのです。彼らを人並みにしてください。

質問:このようなホームレスの世俗的な状況を識別するために、認識を区別するというのはどうでしょう? 一体どの程度まで、彼らが詐欺や窃盗をしているのでしょうか? 私自身ホームレスに関わる仕事をしたことがあるので、通りから追いやられる人々がいるのを知っています。私は世俗レベルと、一方で仏教レベルでそれを扱わねばなりません。

ベルゼン:仏教が「善巧方便」と呼ぶものを使わなくてはなりません。私達は手助けしたいという望みを持っていますし、彼らの苦の因であるかもしれないことや彼らの楽への因となるであろうことについて、ある見解を持っています。そして、彼らにとって実際に助けとなるであろうことを試みるのです。ひょっとすると、金銭を施すのはそれほど助けにならないかもしれません。麻薬やアルコールをさらに買うためにだけ使えうのなら、彼らに金銭は渡しません。もし食べ物を持っていたら、それを彼らに施すことができます。しかしどんな場合でも、彼らに対し気遣う態度を示したり、また、単に最悪で胸くそ悪い麻薬中毒患者だとかアルコール中毒患者だとみなすことなく彼らを尊重することができます。彼らは人間です。苦しんでいる人間なのです。

一体何が人を助ける最善策なのかを決めるのは容易ではありません。目下のところ私達は自分が有限であることを知っています。はたして何が最善かは分かりません。よく分かるために仏陀とならねばならないのですが、時には間違いを犯すこともしっかりと理解した上で、今全力を尽くす努力をするのです。私達は少なくともしようと努めるのです。