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アレクサンダー・ベルゼン博士の仏教講義録書庫

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ダルマ(仏法)を生活に活かす

アレクサンダー・ベルゼン
2002年12月13日、ポーランド、ボクにて

ダルマ(仏法)は人生の問題を対処するためにある

今晩は、日々の生活の中でダルマ(仏法)を実践することについて話そうと思います。ダルマ(Dharma)というサンスクリット語は、予防策ということを意味します。それは何かしら、私たちが問題を避けようとするためにやることです。ダルマの実践を行う時に、まず最初にやらなければいけないことは、人生の中でのさまざまな問題や困難に気づくことです。次に、ダルマの実践の目的は、そのような問題を取り除くための手助けであるということに気づくことです。

ダルマの実践とは、ただ気持ちがよくなるためにするとか、いい趣味を持つためにするとか、流行っているからするとかなどと言ったことではありません。ダルマの実践は、それ以上の意味があり、いうならば、私たちが抱えている問題を解決する手がかりになれるという事です。ということは、現実的にダルマを実践するためには、その過程は快適なものとはならないということに、私たちは気づく必要があります。自分達の生活の中での不快なことや、今持っている困難などを観察して、実際に向き合うことです。そのようなものから逃げるのではなく、逆に、今これから対処してみようとの態度で向き合うことです。

私たちの人生の問題には色々な形があるでしょう。そのほとんどは – 不安の中にいること、他者との関係での多くの困難、疎外感、自分自身の感情や気持ちと向き合う難しさなどと – 私たちの誰にとっても思い当たることです。誰もが日常的に経験するありふれたことなのです。家族関係でも難しさがあります。両親のこともそうです。彼らは病気になり年老いていきます。そして、自分自身の病気や老いについてもうまく対処できません。若者であれば、各々の人生の中で何をしていくのかを見つけ出せない、どうやって生計を立てるのか、どの方向に進むべきかなどと続きます。そのようなことのすべてを観る必要があるのです。

誤った見方(無明)

仏教の教えの最も重要なポイントの一つが、私たちが経験するこのような問題は原因があって生ずるということです。原因が何もなく、問題が起きるといことではないのです。そのような問題の原因は、自分自身の中にあります。これは奥深い洞察ですが、多くの人にとってなかなか受け入れがたいことです。受け入れがたい理由は、私たちには自分自身の問題を、他人や外部状況のせいにする傾向があるからです。「あなたがやったことのせいで、私は不幸だ – 電話をかけてこなかった、私を見捨てた、私を愛していない、など。全部あなたのせいだ」と感じるのです。あるいは、私たちが小さな子供の頃に両親がしたこと、またはしてくれなかったことなど、全てを両親のせいにします。あるいはまた、経済的、政治的、または社会的状況などのせいにします。もちろん、これら全てのことが、私たちの人生経験の中である役割を果たしています。仏教の教えはこのことを否定しません。しかし、主な原因は、私たちの問題の深い原因は、自分自身の内面にあるのです、自分自身の態度の、特に誤った見方をしていることにあるのです。

日々の生活の中で仏教の実践を行う意味について、仏教的な態度として明らかに定義される一つの要素を探そうとするのであれば、私は答えはこれだと思います。私たちが困難を抱えている時には、その原因を自分自身の内側で探そうとし、原因が何かを見分けたら、内面からその状況を変えようとすることであると。内面を観察して、自分の問題の原因を見つけ出すという時に、私は悪い人間だから、良き人に変らなくてはいけないなどの道徳的(モラル)判断を基礎におくわけではありません。仏教では道徳的判断をしません。私たちは単に自分自身が苦しいため、問題や不幸感を取り除くために、問題の原因を内面で見つけようとするだけなのです。その主な原因は、自分自身の態度にあるのです。私たちの問題や苦しみの深い原因は、特に誤った見方をしていることにあると仏陀は言いました。ですから、私たちに必要とされていることは、今起きていることについて、自分がどのような誤った見方をしているのかを見極め、正しい見解(正見)を得ることで、それをどのようにして修正できるのかを見つけ出すことなのです。

では、私たちは何に対して誤った見方をしているのでしようか?いくつかあります。一つは、行動/行為上の原因と結果(業の因果関係)についてです。私たちは自分がどの様な行動にでようが、全く影響を与えないと考えたりします。例えば、「遅刻してもいい、あなたを無視してもいい」などと考えたりします。そして、「全く問題とはならない」と。これは間違っていますし、混乱しています。あるいは、私たちは自分の行いにより、あるいはどのように振る舞ったかにより、不合理で起こりえないはずの事が確たる結果としてでると考えたりします。例えば、「私はあなたに良くしたから、あなたはお返しに私を愛するはずだ。私があなたにいいプレゼントを買ったのだから、私を愛してよ」などです。そのような考え方では、自分自身の行動/行為から起こりもしない事を結果として期待したり、あるいはその行為が起こしうる可能性を誇張してしまい、実際以上の結果を生み出すと期待してしまいます。さらには、ある事柄は一つの結果を生み出すと私たちは考えてしまうのですが、実際には正反対の結果を生み出したりします。例えば、幸せになりたくて、そのためにはいつも酔っぱらっている方がいいと私たちは考えたりもできますが、そうすれば実際は幸せよりも、むしろ多くの問題の方を作り出します。

私たちの誤った見方のもう一つは、自分の在り方、他者の在り方、そして世界の在り方に関することです。例えば、年老いていくことや、病気になることで、苦しみ、不幸に落ち入ります。しかし、人間として、一体それ以外の何を期待するのでしょう?人間は病気になり、若くして亡くなるということがなければ、老いていくのであり、それは驚くようなことではありません。鏡をみて白髪が見え始めると、私たちは不幸になり、ショックを受けますが、これは非現実的で、世界の在り方や、自分の在り方について誤った見方をしている事を示しています。

ここで、年老いていくことに何らかの問題を感じるとしてみましょう。老いに対する誤った見方のせいで – 私たちがその現実を認めないということで – 私たちは心を乱す感情や態度(煩悩)に影響され、自己破滅的に行動してしまいます。例えば、魅力のある若者達の注目とか愛情を求めて、衝動的に自分も若く魅力的に見られる努力をします。それこそが自分を安心させると期待するものを欲しがるあまり、そのように行動してしまうのです。このシンドローム(症候群)の裏には、私はこの世で一番大切な人間で、私が宇宙の中心にいるとの誤った見方が隠れています。そのため、みんなが私に注目すべきだ、私がどう映ろうと、皆が私を魅力的だとみて好きになるはずだとなるのです。そのような時に、もし自分の魅力を認めない人がいたり、あるいは自分の事を好まない人がいたりしたら、耐えられなくなります。また、この時こそはと思った時に、無視されると – 肉体的な事はさておいても、せめて何らかの形で自分を魅力的だと思っていて欲しい相手が、自分に注意を払わなければ – さらに堪え難い事になるのです。しかし、皆がお釈迦様(釈尊)のことを好きだったわけではありません。ということは、自分のことを皆が好きになるという希望とは、一体どのようなことなのでしょう!

私たちが皆に好かれたいと思うことは非現実的な期待です。これは皆が私のことを魅力的と見なし注目すべきとの誤った見方と、渇望と、執着心を基礎にしています。その根底にあるのが無智(無明)の煩悩です。私たちは自分を大切で愛されるべきものと思い、皆が自分を好きになるべきだと思い、そうでない時には、その人に何らかの問題があるのだと思うのです。さらに悪いことは、自分自身を疑い始めることです。「この人が私を好きになれない原因が私にあるのだ、私は何か間違っているのだ」となり、気分を害したり、罪悪感を感じたりするのです。それも、全て無智(無明)のなすわざです。

肝心なことは、自分自身と向き合うことです。これがダルマの実践ということの全てです。どのような状況であれ – 困難を抱えたり、不安に感じたり、あるいはなんであれ – 私たちは自分自身を観察し、何が起きているのかをみなくてはいけません。自分が感じているこのような心を乱す感情の裏にある誤った見方はどこから来るのでしょうか?しかし、私たちがすでに問題が在る対人関係に目を向けたとしたら、自分だけではなく、相手も誤った見方をしているということにも気がつかなくてはいけません。明らかに、相手もまた混乱しているのです。大切なポイントは、「あなたが変らなくてはいけない。私は問題なく完璧だ。あなたの方が変らなくてはいけない人だ」と言ってはいけないことです。逆にまた、私だけが変らなくてはいけないとも言ってはいけません、なぜならそれは殉教者コンプレックスに退行することもあり得るからです。相手と心を開いて話し合おうとする事が大切です。もちろん、その時には、相手もこのことを受け入れる姿勢を持つ必要があります。両者共に誤った見方をしているのだと認めあうことです。自分たちの関係で起きていることを、どのように理解しているのかという点で、問題が双方にあるわけですから、双方の誤った見方を明確にしてみましょう。これが最も現実的な、そしてダルマ的な前向きな方法です。

実践の前にダルマ(仏法)を理解する

仏教の実践法には、多くのさまざまな種類があります。何かの芸当の演じ方を教えてもらうという風には、ただ指示してもらうというだけでは、ダルマ(仏法)の方法を学ぶには十分ではありません。自分の困難さを乗り超えるために、どのような方法であれ、それがどのようにして手助けしてくれるのかを理解することが重要です。いつどの様にしてある方法を適用するのかを学ぶだけでなく、その裏にある仮定を知らなくてはいけません。という事は、高度な修業から始めてはいけないという事です。初歩から始めて、徐々に基盤をつくりあげ、その様にして仏法の教えが積み上げられていく過程を通して、どの修行実践においても、何が起こっているのかを知るようになるのです。

ここで、ある教えの中で「薬を与えられたら、それがどのように効くのかなどと聞かずに、とにかく薬を飲みなさい!」と書いてあります。これはいい助言の一つですが、これは極端な人に当てた警告だということを理解しなくてはいけません。その極端とは、ただ教えを学び理解しようと努力はしても、実践には活かさないということです。その極端は避けなくてはいけません。また、逆の極端もありますが、それも同様に避けなくてはいけません。それはある実践に関してダルマの指示を受けた場合、何をしているのか、何故そうするのかを全く理解しないまま、盲信だけで実践することです。その極端から派生する主な問題は、日々の生活の中で修業をどう活かしていくのかを理解していないということです。どの修行でもその裏にある要点を理解すれば、どのように機能して、何がその意図することかが理解できれば、日々の生活の中でどう応用していくかを他の人に教えてもらう必要はないのです。理解していれば、どう応用していくのかも自分自身で解るのです。

自分の問題を取り去るという時は、自らの個人的な問題のみを取り去るということだけではなく、私たちが他者を手助けする際の困難を取り去るということも含んでいます。「私は怠け者で利己的だから、あるいは忙しすぎるから、他者の手助けができない」とか、あるいは「あなたの問題が何なのか全く解らないし、何をすれば手助けになるのかわからない」などが、私たちが抱える困難さですね。他者を助けるためにこうも困難を抱えるのも、又、誤った見方のせいです。例えば、私は全知全能の神のようにならなくてはいけないし、ただ一つのことをやればそれがあなたの問題を全て解決するでしょう、それであなたの問題の全てを解決できなかったのであれば、問題はあなたの方にあるとする誤った見方です。あなたは正しく行えなかったのだから、それはあなたのせいだ。あるいは逆に、私のせいだ、なぜなら私はあなたの問題を解決できたはずなのに、そうしなかったのだから、私はだめな人間だと。繰り返しになりますが、これは因果関係についての誤った見方です。

ダルマ(仏法)への信念

もう一つのポイントは、日々の生活の中で、神経症的にならずダルマ(仏法)を効果的に活かしていくためには、実際に問題を取り除けるとの信念を持つ必要があるという事です。基本的な仏教徒のアプローチに従えば、まず自分の誤った見方を取り除けるとの確信がなければなりません。つまり何かを取り除くには、それが生じる諸原因を取り除かなければならないということです。もちろん、自分の全ての誤った見方を取り除き、それ故そのような事が二度と起きる事はないとの確信を得ることはとても難しいことです。そしてまた、解脱と悟りを得る事が可能だとの確たる信念を持つ事も難しいことです。私たちが解脱とか悟りが実際にはどういう事なのかを理解できていない時には、これは特に難しい事です。では、解脱や悟りを達成する事が可能かそうではないのかについて、実際にはどう考えればいいのでしょう?もし不可能と考えれば、ありもしないと考える何かを達成しようとの目標を持つ事は、少し偽善的ではないでしょうか?そうなれば、私たちが遊ぶための何らかの馬鹿なゲームとなり、ダルマの実践が本物ではなくなるのです。

私たちは心の底から納得しなくてはなりません、そのためには多くの学びと理解、そしてもちろん深い思慮と瞑想が要求されるのです。解脱と悟りが可能であると考えるだけでなく、自分自身が解脱と悟りを達成できるという信念を持たなくてはなりません。釈尊だけが成就できることで、私にはできないのだというのではなく、私にもできる事で、誰にでもできる事だと信じる事です。私たちは自分の誤った見方を取り除くには、何をすれば良いのかを理解しなくてはいけません。何が自分の誤った見方を取り除いてくれるのでしょうか?それは正しい見解(正見)です。ですから、正しい見解が、どのようにして誤った見方を圧倒して、消去し、再度戻るような事がないようにするのかを理解しなくてはなりません。これらの全ての結果として、ダルマの実践の場は、日々の生活の中にあるという事が解るようになるのです。つまり、刻一刻と過ぎる人生における自分自身の問題、誤った見方、そして困難さを対処していくという事です。

ダルマ(仏法)の実践は内観を要する

ダルマ(仏法)の実践は、単に人生から休憩するとか、素敵な静かな瞑想のため洞窟または自分の部屋へ行くとかでもなく、自分自身の生活から逃れるためにクッションの上に座ることでもありません。ダルマの実践は逃避に焦点を当てるのではありません。私たちが瞑想のために静かな場所に行くのは、人生の問題を対処するためのスキルを発展させるためです。主な焦点は人生です。焦点は座して瞑想をしてオリンピック・メダルを勝ち取ることではありません!ダルマの実践は、人生においてダルマをどう応用していくかという事です。

さらに、ダルマの実践は内省的です。実践により、自分自身の感情の状態、動機、態度、衝動的な行動パターンに注意を払おうとするのです。特に心を乱す感情(煩悩)に注意しなくてはなりません。煩悩の性質は、生じるやいなや、自分だけでなく他者も居心地の悪い思いにすることです。心の平安を失い、制御不能の状態になります。これは非常に有用な定義です、なぜならばそれを知る事により、自分自身がその影響の下に行動している時には、その事を気づかせてくれるからです。居心地が悪いという感じる時は、心の中で何かがかき乱されているということです。そのような時には、内面で何が起きているのかを検討し、それを正すための解毒剤を適用しなくてはなりません。

これには自分の内面で何が起きているのかに敏感になる事が要求されます。そして、自分の感情の状態が乱れていると気づいた時に、それを変えるために何かをするには、動揺した状態で行動にでると、自分自身だけでなく他者にも多くの不幸をもたらすという事を認識する必要があります。誰もそんな事は望みませんし、既に十分過ぎるぐらいの不幸はあるのですから。自分が動揺している時に、どうやって誰かの手助けができるのでしょう?

柔軟性

ダルマの実践では、さらに、ただ一つや二つではなくさまざまな対処法に慣れ親しむ必要があります。私たちの人生は非常に複雑で、一つの特定された解毒剤だけでいつでも問題が解決できるとは限らないのです。ある修業法が、一つ一つの状況で、いつでも最上の効果をもたらす事はあり得ないのです。日々の生活の中で修行の果実を適用するには、優れた柔軟性と多くのさまざまな方法が要求されます。これが効果がなければあれをする、あれがだめなら、これをすると。

私の上師(ラマ、精神面での教師)のツェンシャブ・セルコン・リンポチェは、人生において何かをしようとする時には、いつでも必ず二つか三つの代替案を持ちなさいとよく言っていました。A案がだめでも、ただあきらめてはいけない。君にはB案やC案があるのだから、その中の一つがその内にうまくいくのだからと。私はこれは非常に役立つ助言だと解ってきました。ダルマでも同じ事がいえます、つまりA方法がある特別な状況でうまくいかなければ、必ず備えの別の方法を持つという事です。必ずうまくいく他の方法があるのです。明らかに全ては学ぶことに、さまざまな方法や瞑想法を学習することに基礎をおきますが、そしてそこから身体を鍛える時と同じように、準備として修行実践に移るわけです、これらの方法に慣れ親しむために訓練し、日々の生活の中で、必要な時には実際に適用できるようになるための訓練を繰り返すのです。そのためにはダルマの実践を趣味としてではなく、人生における途切れる事のない(フルタイムの)取り組みとしてみる事が要求されます。

さまざまな極端を避ける

ダルマの実践を家族の中で、両親との付き合い、子供達との付き合い、そして職場での人々との付き合いの中で適用していきます。その時には、さまざまな極端を避ける必要があります。既にいくつか指摘しましたが、私たちは自分たちの問題を他者のせいにするとか、その逆の問題は完全に自分を責めるという両極端な見方を避けなくてはいけません。両者共に関わっているのですから。しかし、他の人々を変えようとする事よりも、自分自身を変える事の方がより簡単です。

ですから、自己改善という事が焦点ですが、それを実行する時には、自己陶酔的(ナルシスト的)な先入観をなるべく避けなくてはいけません。自己陶酔すると、いつも自分自身だけをみていて、他の誰にも注目する事を忘れてしまいます。こうすることで、自分が宇宙の中心だという感覚を助長し、自分自身の問題が世界で最も重要な事だと考えてしまい、他の誰の問題も重要ではないとなります。

もう一つの極端は、自分自身が完璧に良いか完璧に悪いと考える事です。自分自身の苦手な側面、つまり自分が今後取り組み続けなくてはいけない面を認識する必要がある事は確かです。しかし、自分のポジティブな側面や特質も、またそれをさらに発展させるという観点からも認識する必要があります。私たち西洋人の多くの自尊心は低いのです。自分の問題や誤った見方に焦点を当てすぎると、さらに自尊心をなくしてしまいます。自尊心をなくす事が目的ではありません。

自分の心を乱す感情を観察し続ける事と同時に、自分の良き資質を思い出す事で、バランスを保つ事を忘れてはなりません。最も残忍な人々でさえ、ある善き資質の体験をしているのです。膝に子犬や子猫を抱いて撫でてあげた時、疑いもなく、少しばかりでも暖かい感情を感じた事があるはずなのです。ほとんどの人が少なくてもそのような体験をしています。ですから、自分がこのような暖かい気持ちを与える事ができるという事を認識し、このようにして、私たちは自分のポジティブな面もまた認める事ができるわけです。ダルマの実践は、ネガティブな側面のみの取り組みではなく、バランスのとれたものでなくてはなりません。自分のポジティブな面もさらに強化していくような取り組みをするのです。

こうする事で、欠点と善き点の両方を観察しながらバランスを保つためには、もう一つの両極端を避けなければなりません。一つの極端は罪の意識で、「私は悪い人間だ。実践すべきなのに、実践していない。私は、だめだ」となります。このすべきという言葉は、ダルマの実践で自分を観察する際には、消去される必要があります。「すべき」という事ではないのです。自分自身から問題を取り除きたい、そして将来的にも更なる問題を避けたいと思うのなら、最も健全な態度は、「私が自分の問題を取り除きたいのなら、この実践方法がある」と、単にそう考える事です。ここで、実践するかどうかは自分自身の選択です。「あなたはこれをすべきで、そうしないのであれば、あなたはだめだ」と誰も言っていません。

その逆の極端も避ける必要があります。それは「私たち全員が完璧です。自分の仏性を知れば、全ては完璧です」という極端さです。これは非常に危険な極端です、なぜならば自分は変る必要がないという態度に行き着けるからです。つまり私たちは既に完璧なのだから、自分のネガティブなやり方を止める必要もないし、捨てる必要もないとなります。自分を完全に悪いもの、あるいは逆に完璧なものと感じるような、このような両極端を避ける必要があります。基本的には、自分自身に対する責任を持つ必要があるのです。それがダルマを日々の生活の中に活かす主な鍵です。自分の人生の質を高めるような行為にでるために、自分自身に対して責任をとるのです。

インスピレーション(良い影響)

自分自身と取り組む時には、自分と同じように実践している他の人々のコミュニティーからも、また上師(精神面での教師)達からもインスピレーション(良い影響)を受ける事ができます。しかし、多くの人々にとって、何世紀も前の偉大な師達が空を飛ぶ事ができたなどの奇抜な物語は、上師から受けるインスピレーションの安定した供給源とはなりません。こういう事を自分に関連づけるのは非常に難しい事で、最終的には魔法の世界への旅(マジック・トリップ)に陥る傾向があるからです。それより、接触があまりなくても、実際に何らかの接触がとれる、今生きている上師が最上の例です。

諸々の仏陀あるいは真に資格のある教師(ラマ)たちは、私たちに感動させようとかインスピレーションを与えようとはしません。例えていえば、彼らは太陽のようなものです。太陽は人々を暖かくしようと努力はしませんが、自然と他のものを暖めるという性質を持つのです。同様の事が偉大な師たちについてもいえます。彼らの生き方や、個性、そして物事をどう対処しているかなどが、自発的に、自然な形で私たちにインスピレーションを与えます。魔法でも手品でもありません。最上の形でインスピレーションを与えてくれるのは、現実的で地に着いたものです。

ずいぶん前に亡くなったドゥジョム・リンポチェを思い出します。彼はニンマ派の座主で、私の教師の一人でしたが、ひどい喘息を持っていました。私自身も喘息を持っているので、呼吸が苦しい事がどういう事なのか解ります。普通に呼吸できない時に教える事が、いかに大変な事か知っています、なぜなら自分の全てのエネルギーを、十分に空気を得るためにだけ内側に向けなくてはいけないのですが、この状況ではエネルギーを外に向ける事は非常に難しいのです。ドゥジョム・リンポチェが、ひどい喘息を持ちながらも、ステージに上がり教えを説く姿をみました。彼は喘息で少しも動揺する事なく、驚くばかりの対処をし、驚くような教えを説いたのです。それは決して魔法や手品ではなく地に着いたもので、信じがたいほどの励みになります。現状との対処であるからこそ、インスピレーションの源になるのです。

スピリチュアル(心を育成する精神的)な道を歩み向上していくとき、自分自身からもインスピレーションを得る事ができます。これもまた大切なインスピレーションの源です。自分自身の進歩からインスピレーション(励み)を得るのです。そのためには、とても繊細にならなければいけません。多くの人がこのことを感情的にうまく取り扱えないのです、なぜなら私たちは少しの進歩で傲慢になり、うぬぼれたりする傾向があるからです。ですから、進歩するとは何を意味するのかを定義しなくてはいけません。

仏道における進歩とは

はじめに、進歩は一直線ではないという事を、つまり上がったり下がったりを繰り返すという事を認識しなくてはなりません。これは輪廻(samsara)の主な性質の一つで、三善趣とか三悪趣に輪廻転生する事だけを言っているのではありません。上がったり下がったりするのは、今は幸せだと感じる、今は不幸だと感じるなどと、日々の生活の中でもそうです。私たちの気分は上がったり下がったりするのです。今は、修業をやる気になっている、今は修業をやる気がないと、これがいつも上がったり下がったりするわけですから驚かないで下さい。実際のところ、輪廻から解放された、解脱した阿羅漢(arhat)になるまではこのように続くのです。信じがたいほど高度なその地点に至るまで、輪廻は上がったり下がったりし続けるのです。ですから、長い間実践をしてきて、突然個人的な恋愛関係がこじれたりしても落胆しないで下さい。不意なことで、私たちは感情的に動揺しますが、こういうことは起きるのです!それは自分がだめなダルマ(仏法)の実践者であるという事を意味するのではありません。私たちの輪廻の状態におかれている現実を加味すると、全く自然な事なのです。

ダルマの実践においては、奇跡はまず起きません。日々の生活にダルマを適用しようとする時は、奇跡を期待しないで下さい、特に自分の向上に関してはそうです。自分の進歩を現実的にどう測ればいいのでしょうか?ダライ・ラマ法王は、ダルマの実践を考える時には、一年や二年の単位ではなく、五年や十年の単位で実践のチェックをするといいと助言しています。「五年や十年前に比べて、自分は穏やかな人になっているか?さらに困難な状況にであった時に、それほど動揺せずに、あるいはおしつぶされる事なく、うまく対処できているか?」と問いかけるのです。そして、答えがそうだという事になれば、何らかの進歩があったという事で、それそのものがインスピレーションを与えてくれます。まだ問題は抱えていても向上はしている事が、歩み続ける力を強さを与えてくれ、事がうまくいかず困難な時でも、それほど動揺しないで、以前より早く回復できるようになるのです。

自分自身がインスピレーションの源になれるという時の主要点は、このインスピレーションが仏道を歩み続ける強さを与えてくれることです。これはひとえに、正しい方向に進んでいるという事を信じて疑わないからです。そして、正しい方向に進んでいるという事を確信するには、その方向へ行く事が何を意味するのかという事について、現実的な考えを持っているからです。つまり、全体としてその方向へ向かいながらも、上昇と下降は繰り返すのです。

ダルマの実践をどのようにして日々の生活に活かすかについて、一般的な考え方のいくつかを紹介しました。どうかお役に立ちますように。ご清聴ありがとうございました。