倫理的行動の土台

ご親切な歓迎の挨拶とご紹介どうもありがとうございます。ここにいれることは本当に光栄です。ふれていただいた通り、私にとってはカルムイク共和国への四度目の訪問ですが、エリスタ以外を訪れるのは今回が始めてです。ここラガニに来てカルムイク共和国をもっと見る事ができて本当にうれしい限りです。カルムイク出身の偉大なゲシェーであるゲシェー・ワンギャルが生きた伝統としての仏教を私に紹介してくれましたので、彼の故郷を訪問できることと彼の智慧を少しばかりでもその故郷に持ち帰れる事はいつでも素晴らしいことです。

倫理の主要三分野 – 破壊的な行動の回避、規律、他者を助けること

今日のトピックは「倫理の土台」ですが、これは非常に幅広いトピックです。私たちが仏教における倫理や倫理的行動について話す時は、三つの異なる分野について語っています。最初が破壊的な行動を避けることですが、それは傷つけようとの意図を持つか持たないかに関わらず、怒りや貪欲や利己主義の下に行動しないということです。時に私たちはわがままに振る舞いますが、自分がわがままに振る舞っていることさえ気がつかず、誰かを傷つけようと意図しているわけでもないのに、実際には傷つけたり問題を生み出す原因になったりします。

私たちがわがままで「のやり方」や「自分が欲しいものは何であれ手に入れなくては」とそれだけを欲すれば – 自分のことだけを考えているのですが – そうなると他者を無視して、そういうつもりはなくても他者を非常に傷つけてしまいます。そして怒れば、自己制御を失いますよね。後で後悔するような、数多くの問題を作り出すようなあらゆる類いのことを言ったりやったりしてしまいます。と言うことで、倫理の最初の分野は破壊的な行動を避けることです。

倫理について語るときは規律について話しています。規律を持つとは自分の人生をコントロールして、怠慢など人生において何も達成できなくなるようなありとあらゆる心を乱す状態に影響されずにいれることです。

さて、倫理的行動の第二のタイプは実際に何か建設的なことに携わることです。例えば、しっかり勉強して良い教育を受けることです。それには多くの規律を必要としますよね – 学び勉強する自己規律です。自分の人生の中で何かポジティブなことを達成したいのであれば資格が必要ですが、それには訓練が必要で規律が要求されます。それは倫理の分野なのです。

何故倫理なのでしょうか?例えば私たちは本当にすごい泥棒や犯罪者になるために訓練することもできますし、あるいは社会にポジティブに貢献する人になる訓練をすることもできます。ですから、何かを訓練するのであれば、自分の得意とすることや才能をベースに何が最も助けとなるのかを決める必要があります。そして、それには自分が好きなことや楽しむことも含まれます。自分が楽しむものについて考えると、もちろんただテレビを見ることや友人たちと遊ぶことが自分の楽しむことだとなるのかもしれませんが、それを全人生においていつもやることはできませんね。ですから、自分が楽しむことについて考える時は、まさに今を楽しむということではなく、人生における長期的な幸せを与えるものは何かということです。

倫理の第三のタイプは、実際に他者を助けることに関わるための倫理です。優れた能力を持つための訓練だけでは十分ではなく、私たちは他の人々と共に社会に住んでいるのですから、自分の優れた資質や才能や能力のすべてを他者と分かち合うことが重要です。持っている能力が何であれ、他者を助けるために使えます。結局、社会の中に住んでいるのですから、私たちの幸せは社会全体の幸福に非常に大きく依存します。ですから、倫理について論じる時には、ただ狭く小さく考えるのではなく、非常に広い視野の心を持つことが重要です。それはただ自分と自分の家族だけのことを考えるのではなく、もっと大きな社会のことを考えることを意味します。そして、今のことだけでなく、将来や自分のやることに続く結果について考えることです。

倫理的な行動の土台 気にかける態度(不放逸)

私たちが倫理的な行動の土台は何かと問う時、土台ということでは「気にかける態度(不放逸)」として知られていることが主に強調されます。この気にかける態度は自分のことを気にかける、自分のやっていることを気にかけることを意味します。心に起きる衝動で無意識に行動するのではなく、自分のやることのもたらす結果を、それが自分の人生をどう導くのかを気にかける。そして自分だけでなく他者に及ぼす影響も気にかけることです。

例えば、自分が今破壊的に行動したり、あるいは怠慢のあまり何もしないで過ごせば自分の将来はどうなるのか?特に、ここにいる多くの人がそうですが、若い人にとって、今自分を訓練しなければ、どのように生計を立てるのか、人生とどのようにむき合うのか?もし「ああ、かまわないよ。関係ない」との態度を持ったり「希望は全くないのだから、どうして良い教育を受けたり、貿易を学んだり、専門職について学んだりするのだ」と感じるのであれば、持っていた機会を無駄にしたと後の人生でとても後悔することになるでしょう。

ですから、将来のことを、今の人生をどのように過ごすかで生じる結果について真剣にとらえることは重要です。これは大切なことだと感じるように、自分の将来は大切だと感じるようになる必要があります。自分のことを気にかけなければ、一体誰がそうするのでしょう?

心の馬の手綱を手中に収める

仏教で使われる言葉がありますが、自分自身の手の中に自分の人生を取り込む、言い換えれば自分の人生をコントロールするという意味です。馬に例えられて説明されています。馬の手綱を、乗り手が馬を導くために使う綱ですが、自分の心の馬の手綱を自分自身の手中に持ち、馬が暴れ回らないように、誰か他の人にコントロールされないようにするべきだと言います。

自分の人生で何をしようとするのか、どのような人になるのかをコントロールすることは重要です。何もしないでただ怠慢な人になるのか?それとも人生が意味のある充実したものとなるよう努力する人になるのか?意味のある充実した人生は他の人々とどのように関わるかに大きく依存します。私は親切で役立つ人として行動しているか?それとも全くわがままでいつも他の人々に怒ってばかりいるような行動をとっているのか?

誰もいつのときでも怒っていて癇癪を起こすような人を好きになれませんし、大体はそのような人を非常に恐れています。そのような人とは一緒にいたくないのですが、それは自分に対して怒ることもあるでしょうから「この人とは一緒にいたくない」となります。あるいはいつも文句を言っては批判だけする人など、そのような人といることは面白くないですよね。しかし、私たちが他者のことを思い、他者に対して敏感で、実際に興味をもって、他者の失敗や過ちを批判する代わりに、その人が成長し向上することを手伝えば、誰もが私たちと一緒にいたいと思うでしょう。

自分が今どのタイプの人で、これからどのようになるかは倫理に大きく依存します。自分の行動とその及ぼす効果を、つまり自分がどのような人に成るのかを気にかけ、自分の他者との関わりでその人たちにどう影響するのかを気にかけるのです。これが気にかける態度(不放逸)です。

私が「気にかける態度」と翻訳しているこの言葉(bag-yod サンスクリット語 apramada 不放逸)には「注意する」という意味もあります。ですから、自分が何をするのか、何を話すのか、何を考えるのかについて注意する必要があります。悪い習慣になれば、さらに深く習慣が根付いてただ自動的に悪いやり方で行動してしまうからです。

例をあげましょう。多くの人々が話す時に多くの悪い言葉をののしりの言葉を使います。英語では確実にそうですが、ロシア語でもおそらくそうだろうと思います。ロシア語の一般的な言葉を知らないのですが、ほとんどの言語にののしりの言葉が、悪い言葉があると思います。若い人たちがこのタイプの下品な言葉遣いを習慣にしてしまいがちで、自分の一部のようになってしまい、後には何も考えずに自動的にこのひどい言葉を使ってしまうようになり、ひどくうろたえたりすることになるのです。

それを防ぐためには注意深くならなくてはいけません。自分が徐々に強化する習慣に今のうちに注意しなくてはなりません。今の生き方が影響する将来について気になるので、今のうちに注意深くならなくてはなりません。そこで規律でもって、自分がどのように話すのか、どのように考え、どのように行動するのかに気づこうとマインドフルになろうと努力します。そしてネガティブに行動したりしだせば、後にそれを変えるのは非常に難しいと認識するのです。

さて若い時は、聴衆の多くの方がそうですが、この時期が習慣が形づけられる時です。ですから、心の馬の手綱を取り自分の行動を手中に収めることが、自分がどのような人になるかをコントロールすることが非常に大切です。自分はネガティブな方向に行きたいのか、それともポジティブな方向に行きたいのか?ここで「でも、自分の人生はコントロールできない。社会はこうで経済はああだから」と言ってただ文句を言うわけにはいきません。何故ならどのような状況であれ自分がどのような人になるのかは自分自身にかかっているのですから。最悪の状況の中で生活していても、親切な人になれますし非常に意地悪く残酷な人にもなれます。わがままにもなれますし、皆と調和の中で暮らそうとすることもできます。

ビデオ : カンドロ・リンポチェ — 得難い人生とは何か
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倫理的な規律には判別する認識が必要 – 何が害で何が助けとなるかを知る

ですから、仏教で倫理について語る時は「ここに法律があり、規則があり、私は忠実にそれに従うべきだ」ということについて話しているのではありません。それは仏教のアプローチではありません。私たちは軍隊にいるように「わかりました。これらの規則に従います」というのではありません。むしろ仏教での倫理は「判別する認識」 と呼ばれるものに基盤を置きます。何が役立つことで、何が害のあるものかを判別する必要があります。そして、誰もが幸せになりたくて不幸を望まないのですから、不幸を避けるためには害のあることを避け、自分や他者の幸せを破壊することを避ける必要があるのです。私は幸せになりたければ役立つことをやる、幸せをもたらすようなことをやる必要があるのです。

そして私たちは社会の中で生きていることが現実です。私たちだけがこの惑星の人類ではありません。ですから自分たちが目標にする幸福の範囲について考える時には、皆の幸せということを考えなくてはならないのです。ここで「私がどうやって皆を幸せにできるのだ」と問うこともできるでしょう。そして、自明なことは自分だけの努力では皆を幸せにはできないということです。しかし、仏陀がおっしゃったように、バケツの水は一滴一滴でたまるのです。ですから、私たちもバケツに自分の一滴を足せます。バケツにどのような一滴を足したいのでしょうか?他者にただ問題を引き起こすような問題の一滴ですか?それとも何であれ少しでも助けとなるような一滴ですか?その助けがただ子供を家族を養うということでも人生でポジティブな価値があるので、これは有益な一滴です。劇的になる必要はありませんよね。これらがすべて私たちの手中にあるわけです。

自分の価値観

倫理の他の土台は価値観です。私たちは良きポジティブな資質に、それを備えている人々に対し敬意を払う必要があります。私は誰を尊敬するのか?自分は誰か大犯罪者を尊敬するのか、それとも他者を助ける本当に実に優れたリーダーを尊敬するのか?これは興味深い質問ですよね。ロックンロール(ロック)のスターを尊敬するのか?その中にはその人生で明らかに良いことをしている人もいますよね、ですからそれでもいいでしょう。しかし、そうではない人もいます。それとも、例えばダライ・ラマ法王のような偉大な精神的指導者を尊敬するのか?

人生において自分が最も大切だと思う価値とは何か?ネットにボールを蹴ることか?それとも、実際に人々の生活を助けるようなことを行うことか?ネットにボールを蹴ることを学ぶことはできます。とてもいいことで多くの人々を楽しませることができますが、おそらく動物でも訓練をすればネットにボールを蹴ることはできることでしょう。たしかに、偉大なスポーツ選手になることは良いゴールかもしれないが、動物にはできないことで他にも自分を訓練することはないのだろうか?そう、私たちは人間なのですから、途方もなく多くのことをやれるのですが、それは私たちが知性を持ち、感受性を持ち、他者を楽しませるだけでなく数多くのやり方で実際に助けることができる能力を持っているからです。

さて、もちろん、エンターテイメントは人々がリラックスしたり、落ち着いたりするための一つの方法ですので、それは決してネガティブなことではありません。しかし、私たちにはそれ以上のことができる能力を持っているとすれば、それをしてもいいはずですよね。私たちは良いエンターテイナーや良いスポーツ選手になると同時にさらに社会に利益するために努力することもできます。これは価値観に帰着します。何が他者を助けるのでしょうか?エンターテイメントも他者を助ける一つのことです。誰かが病気であれば看病すること、それもまた別のレベルで他者を助けることになります。他者を教育することも他者を助ける別の方法です。もし私が成功したエンターテイナーやスポーツ選手であれば、いいでしょう。しかし、お金と名声を何のために使うのでしょうか?ただ自分の宮殿を建てることに使うこともできますし、あるいは病院を建てたり他者のために基金を設立することもできます。ですから、価値観です。自分自身の宮殿に住むことか、それとも他者を助けることか、何が大切なことか?

そして私たちが自分自身を見てみると、実に多くの能力を持っていますが、これらの能力はすべて使えるのです。何が大切かと言うと自分自身を知ろうとすることです。私の能力は何か?私の才能は何か?そうですよね。誰もが何かができる能力を持っています。料理がうまいなど、何も日常とかけ離れたものでなくていいのです。そこで考えるのですが「これをどう使おうか?他者を助けるためにこの才能を、自分が持っているこの能力を何に活かせるのか?」そして、他者を助けます。もちろん直ちに今すぐに現状で他者を助けることができるのであれば – おいしい料理を作るとか楽しませるとか – いいでしょう。悪くないですね。しかし、料理を作るなどの今すぐできることだけでなく、長期間にわたり他者を助けることができればさらに良いことですよね。

ですからこの全てが私たちの手中にあるわけです。「さて、どのような規律を持てばいいのだろうか?規律を全く持たないのだろうか?弱い規律か?それとも倫理を土台にした本当の自己規律を持つのか?」そして、すでに述べたように、その全てが注意することに、人生をコントロールすることに「何が助けとなるだろうか?何が害となるのか?」を判別することに、そして行動することに基盤を置きます。自分を訓練するとは、ポジティブな習慣を築き上げ、ネガティブな習慣を乗り越えようとすることです。マインドフルになり「私はどのように行動しているのか?どのようにコミュニケーションをとっているのか?どのように考えているのか」に気づこうとするのです。そして、自分の人生を実際には幸福にしているわけではないレベルで満足しないで下さい、いつもさらに良くなれるのですから。

倫理的な生き方が幸福への道

しかしさらに良くしようということを話す時には「私はだめだ」と自分自身を打ちのめし、自分のことを非常にネガティブに感じることを意味するのではありません。そうなれば倫理的な生活が罰のようになってしまいます。罰ではありません。倫理的な生活に従うとは、倫理的な生活を送るとはより幸せになる道のことです。そして、それは他者がより幸せになれる手助けとなり、それが自分自身の幸福を強化するのです。

ですから、私たちの将来は自分次第です。自分が今どのような人になるのか、そして将来はどのような人になるのかはすべて自分次第なのです。今学校に通う若者であれ、成人していたり年老いていたりしていようが、誰でもこの進路をとることができるのです。

さて、講義はこの辺で十分でしょう。質問や議論や何であれ皆さんの好きなことに時間を当てましょう。

質問

この価値観を発展させるには何をすべきでしょうか?

この価値観を発展させるには、自分自身の中でポジティブな資質を持っていることを認識する必要があります。つまり、私たちの誰もが身体を持ち、他者と関わることができ、行動することができるということです。私たちみんなが意志を伝えることができます。私たちみんなが心(マインド)を持ち、事物を理解することができ学ぶことができます。そして、私たちみんなが心(ハート)を持ち、温かく親切になれる思い(フィーリング)を持てます。これらが私たち誰もが持つものです。そして、自分がこれらの取り組みのための素材を持つことに気がつけば、それらをどのようにして使っていくのかは自分次第です。そうやって、自分が基本的な取り組みの素材を持っていることに気づけば、自己評価や自己の価値を認めることにつながり「私は何も悪くない。自分の持っているもので何かポジティブなことができる」と、自尊心を高めてくれます。

自分の良き資質をどのように評価して、それを他者の利益となるように応用するのでしょうか?

自分の良き資質をどのように評価するかは、実のところ自分自身の内面を見ることと関わってきます。これらの基本的な取り組みの素材を見いだすのに、自分は心を持ち、身体を持ち、喋ることができるなどとそれほど遠くを観る必要はありません。決して特定するのに難しいことではありません。そして「自分の人生で何かを学んできただろうか?」と自分を調べる必要があります。どれだけ若くとも、実際に人生で何かを学んでいます。例えば、歩くことを学んだ、話すことを学んだなどと非常に基本的なことを学びました。そして、自分の持つ基本的な資質という意味で、今後どの方向に行くのかは「何が自分にとって簡単なことか?自分が簡単に学べることは何か?」を見ればいいのです。私たちの中には数学は苦手で語学には長けた人もいるでしょうし、数学や科学は得意でも書くことは苦手という人もいるでしょう。

ですから「私は何が得意なのだろうか」と自分自身を調べる必要があります。そして、この一部として「私は何を楽しむか?何が好きか?」があります。自分の人生を自ら体験するのです。自分の人生で何をするのか、私が自分の人生を経験していくのだと言うことは「私は幸せになるだろうか?不幸になるのだろうか?」を問うことです。理想としては、人生において自分が本当に好きなことで意味があると感じることをしようとすることです。そして、何らかの形で誰かを他者を助けることができれば意味のあることでしょう。地球規模で大きく劇的なことになる必要はありません。

ですから、自分の良き資質を評価することは「今まで何をしてきたか」と「自分に今簡単にできることで自分が好きなことは何か」を見極めることに依存します。私たちが見逃しがちな例をあげてみましょう。ある人々の良き資質は他人の前で話すことが好きなことです。恥ずかしがらずに、誰とでも簡単に喋ることができるのですが、他人といることが気楽なのです。ここで、私たちはそれはそれほど良き資質や華やかな資質というのでもないと考えたりしますが、 実際は偉大な資質です。何故ならば、例えばあなたが店で働いているとしましょう。あなたは「でも、それはあまり劇的な職業とはいえない」と考えたりしますね。しかし、店に来た人々に上手に話しかけ、好意的になることができれば – 恥ずかしがらずに、ロボットのように冷淡でもなく – 客はあなたを気に入り、店に来ることが好きになり、満面の笑みを浮かべて店を出て行くでしょう。人々を助けるのですから、これは良き資質です。

とてもわがままな人といる時はどうすればいいのでしょうか?

とてもわがままな人といる時にはどうすればいいか?すべてがこの人が助けに対し受容性があるかどうかに依ります。私の住むベルリンの知人の一人のことを考えていますが、その人はいつも自分のことを考えていて – 実に自己中心的で、彼女自身のことだけをノンストップで話し続けますが、そのほとんどが文句や批評です。ランチを一緒にすれば、彼女は自分の部屋の新しいカーテンを作るための適当な布を見つけることができないと文句をいうことにほとんどの時間を費やします。さて、このような人とどのようにつきあうのでしょうか? そのような人と付き合う時は、彼らが極めて不幸で孤独であるということを基本的に認識することです。ですから、彼女は基本的には注目を得るために、誰かに会えば常に喋り続けるのです。彼女の意図は人を不快にすることでも、ランチの時間を退屈にさせることでもなく、何らかの注目を得て同情されることです。ですからこのような状況では(彼女は気を悪くするでしょうから)こちらは「文句は止めてくれ。カーテンよりもう少し意味のあることについて話そうよ」などとあまり強くいうことはできません。私にできることは忍耐を訓練することで、心を開いて彼女の話しを聞き、少し同情すれば彼女は落ち着くことができるかもしれません。実際そのように話したり批判したりするということは、彼女自身は非常に緊張しているのです。

ですから私が思うにこれらは最も利己的で、自己中心的な人々の特徴です。彼らは不幸で、非常に緊張していて、常に喋ってばかりいて注目されたいのです。ですから、ただ彼らを落ち着かせて、少し同情して、ただただ我慢する以上にできることはないと思います。それからゆっくりと、あなたがただ聴いているだけでなく、交流しようとしている事に彼らが気づけるようになればいいですね。

仏教はあなたにとって宗教か、生き方か?

質問: 仏教はあなたにとって宗教ですか、それとも人生の生き方ですか?

アレックス: 私にとって、仏教は宗教でもあり人生の生き方でもあります。この両側面は切り離せないと思います。私にとって宗教とは、少なくとも仏教ということに関しては、人生とどう関わっていくかを教える智慧の源で、特に自分自身と他者をより幸福な方へと導くものです。ダライ・ラマ法王は「この世で最上の宗教は何ですか?」と聞かれた時に「それはあなたをより親切な人になるように助ける宗教です。それが最上の宗教です」と答えました。ですから、より親切な人になることが人生の生き方ですね。

結びの言葉

参加者: 子供たちがあなたの教えに非常に興味を持っていると思うのですが、ここでアレクサンダー・ベルゼン氏がチベットとモンゴルの文化に関わるいくつかの国際的な事業やチェリノブイリの人々のための医療事業に携わってきたダライ・ラマ法王の非公式のメッセンジャーであることを付け加えたいと思います。これらの事業は二十五年以上も続いています。アレクサンダー・ベルゼン氏はまた仏教徒とイスラム教徒間の対話にも参加しています。

アレックス: そうですね。すべて真実です。

参加者: [不明]

アレックス: 本当にありがとうございます。皆さん全員にお会いできて非常に光栄ですし、今後もお会いできることを楽しみにしています。

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