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日々の生活における三学と八正道

アレクサンダー・ベルゼン
2013年6月 ウクライナ、キエフにて
未編集の文字起こし

セッション3 正しいマインドフルネス、集中、見解、そして意図

復習

日常の生活の中で三つの訓練(三学)がどのように私たちを助けてくれるのかと言う文脈で論議を続けていますが、それには八正道と呼ばれているものを実践する事が必要です。

三学とは、

  • 倫理的な自己規律(持戒)

  • 集中(禅定)

  • 判別する認識(智慧)

倫理的な自己規律(持戒)を発展させるために、私たちは正しい話し方(正語)、正しい行い(正業)、そして正しい生計の立て方(正命)を実行しようとします。そして、ここで集中(禅定)の訓練について話し始めましたが、正しい努力(正精進)、正しいマインドフルネス(正念)、そして正しい集中(正定)の三項目が必要です。

正しい努力をするとは、

  • 心を乱すような考えや破壊的な考え方を避けようとする

  • 怠慢や自己本意などの自分の悪習慣や欠点を除こうとする

  • 忍耐や親切心などの良き資質を発展させる – 欠けている良き資質が何であれ発展させる必要のあるものが何であれ – あるいはすでに持っているのであれば、さらに発展させようとする

  • 集中に障害となるものを除こうとする

集中に障害となるものを取り除くとは幅広いものです。経典に記された五種の集中の障害となるものを見てきましたが、それ以外にも多くの尺度があります。自分が何かに取り組んでいる時には、携帯電話を切るとか、毎日メールやメッセージをいつもオープンにするのではなく、ある限られた時間だけ見るとか、自分に必要とされる事に集中する、焦点を当てることができるようにするなどがあげられます。医者や大学教授はオフィスアワーの時間帯を持っていて、いつでも会いに行けるわけではなく、ある時間帯にしか会う事ができません。ですから、同様に、自分自身ともそのようにやってみるのです。医者と同様、緊急であればもちろんコンタクトがとれます。しかし、それ以外にはソーシャル・ネットワーキングであれ何であれ、ある時間帯だけに限定して、それを厳格に続けます。そのようにすれば、自分の集中力を発展させることに役立ちます。

ここで、社会的な展開を見てみると面白いのですが、以前は集中を妨げる主な障害は自分自身の精神的(メンタル)な状態で、精神的な散乱、白昼夢などのようなものでした。しかし、現在(いま)はそれ以外にも色々あります。文字通信やFacebookやトィッターや電子メールなどと、外部から来る多くの障害が数多くあります。ですから、それらにただ圧倒されることのないように本当に努力する必要があるのです。しかし、そうするには、それらのメディアの有害となる特徴を認識する必要があるのですが、被害の最たるものは注意力が持続する時間が短くなっている事でしょう。トィッターでは、文字数が限定されていて、Facebookのメッセージをいつもスクロールしているなどと、すべてが速すぎていつも変化しているので何事にも打ち込めません。それが集中には有害な悪い習慣を積み上げていきます。何かに注意し続ける事はなく、いつもめまぐるしく変化しているのですから。これは注視しなくてはいけない事です。

正しいマインドフルネス(正念)

さて、それでは、八正道の中の集中に関わる次の項目ですが、それは正しいマインドフルネス(正念)についてです。

  • マインドフルネス (dran-pa 憶念) は基本的には精神的(メンタル)な糊です。集中しているときは、ある対象にしっかり掴まっています。手放さないのです。

  • それは正知(shes-bzhin)を伴います。正知は自分の注意が散乱したり、鈍ったり、眠気がきたりするとそれを察知します。

  • そして、この注意(yid-la byed-pa) – 対象をどのように見据えるか、対象をどう見るか – を使います。

ここでは自分の身体、フィーリング(感受すること)、心、さまざまな心的要素(心所)にどのように注目するのか – 言い換えれば、自分がどのように見据え、考慮するかと言う事が関わっていますが – そして、マインドフルネスはそれを保持する事です。ここで、避けたい事は身体やフィーリングなどの間違ったあり様にしがみつく事を避ける事ですが、それを手放さなければ、気が散る原因となるだけで集中する事ができません。

まあ、少しばかり抽象的ですね。説明が必要ですね。

身体に関して

自分の身体について話す時は、一般的には身体とさまざまな身体的な感覚、あるいは身体のある側面の事を話しています。間違った考察とは、身体はその本質が快楽であるとか、清浄で美しいものであるということです。例えば、ヘア・スタイルや化粧や服装などに何時間もかけたりと、私たちは容姿を心配する事に自分のすべての時間を費やすのですが、これでは注意力が非常に散漫します。もちろん、清潔で人前に出られるようにする事は大切ですが、極端にいってしまい、容姿が快楽の源でいつも素晴らしくなければならないと考える事は – いつも容姿で他人の注目を得ようとする事は – 他にもっと意味のある事に焦点を当てていないと言う事ですよね。

そして、身体を見てみると、座っていれば、すぐに不快になり、動かなくてはなりません。横になっていると、このポジションは楽ではない、あのポジションは楽ではないと問題がありますよね。そして、病気になる。年を取る。もちろん、身体の事を大事にして、健康でいること、運動をするなどは大切ですが、それに気を使いすぎて、それが永続的な快楽の源だと思う事は問題です。

これは間違ったマインドフルネス(憶念)で、避けたい事です。ですから、この間違ったマインドフルネスを – 髪型が最も重要な事で、着るものはカラーコーディネートしてと、すべてが整然としていなくてはいけないと固執して手放さないでいる事を – それが重要な事で、幸せをもたらす源だとする事を取り除きたいのです。それに固執する事を止めて下さい。そして、正しいマインドフルネスは「それが幸福の源ではない。これは問題なだけで、自分の時間を無駄にするだけで、もっと意味のある事に集中する事を阻むだけだ」となります。

あるいは「私はいつも清潔でいなくては。手を洗わなくては」となりますが、何か汚いものに手で触れたとしてもそれがどうしたと言うのですか?手を洗えば良い事です。ですから、清潔マニアになって、何か汚いものに触れる事を怖がることを止めるのです。これ以上続けませんが、手で触れたくないと思うものはたくさんあります。(想像してみて下さい。)手に触れたくないとしても、それがどうした?手を洗えば良い事で、心配する必要はありません。

感受/フィーリング(受)に関して

次は、感受/フィーリング(受)に関する事ですが、ここでは幸不幸を感じることで、基本的には苦しみの源、問題の源に関連します。つまり、私たちが不幸な時は、ここでは渇き(サンスクリット語で trishna)の事ですが「この不幸を取り除かなくては」と渇望します。そして、すこしばかりの幸福を持てると、のどが非常に渇いて少しばかりの水を飲んだ時のように、少しだけ幸せにはなりますが、まだのどは渇いていて、さらにもっと欲しくなるのです。ですから、これが基本的な問題の源です。

私たちがこの不幸を世界で最もひどいものだと考えれば「どんな事をしてでもそれを取り除かなくては」となり、集中力に問題を生み出します。どのようにして集中力に問題を生み出すのか?座っていて「ちょっと不快だな」とか「気持ちがすぐれない」とか「私は不幸だ」となっても、ここで前回も話したのですが、それがどうした、大した事ではありません。自分がやっている事が何であれ続ける事です。「頭痛がする」「あまり良い気分になれない」とか何であれ。それがどうした?それを「これは一番ひどい事だ」と固執して、心配して「これをどうやって取り除こうか?これはひどい。」と心の中で自分に愚痴を言い、周りにいる人たちに愚痴を言います。それは自分がやっていることに – 誰かに話していたり、自分だけで何かに取り組んでいようが – 集中することを妨げる深刻な問題になります。

あるいは逆に、気持ちよく気分が爽快な時には「ああ、最高だ。もっと続いて欲しい。このままでいたい」ととらわれて、気を散らさないで下さい。それは瞑想の時や良い気持ちになっている時に起きたりしますが – それがいかに素晴らしいことかと考えて気が散ります。あるいはまた、誰かと一緒にいて気持ちいいとか、おいしい食事を食べて満足しているとかです。ここでの間違ったマインドフルネスは「これは本当に素晴らしい」としがみついて、それを大きな事にしてしまい、結果的に気が散るのです。その事そのものは楽しんで、何か特別な事にはしないで下さい。大した事ではありません。

心に関して

そして、次は、私たちが心をどう見るかについてです。もし私たちが心(マインド)の本性は怒りや利己主義/自己本位に満たされているというアイデアに「私は馬鹿だ」「私は怠け者だ」などと、心が生来的に何か間違ったもので欠陥だらけと言う事が事実だとしがみついて手放す事ができないでいると、これもまた集中する事を妨げます。私たちはいつも自分の事を「ああ、私はまだまだだ」 – 「私はこれではない。あれではない」 – 「私には分からない」などと考えています。試す事さえしません。私たちが「私は混乱していて、分からない」というアイデアにしがみつけば、まあどうにもならないですよね。ところが、正しいマインドフルネス(正念)であれば「まあ、今のところ、私は混乱しているかもしれない、一時的に何かを理解する事ができないでいるけれど、それが私は馬鹿だとかいうような心の本性というわけではない」などとの事実をしっかりと保持できれば、それを解決しようと集中力を使えば良いだけです。

私たちの心的要素(心所)に関して

そして、第四として、知性、親切さ、忍耐などの心的要素(心所)に関することがあります。これは – 心的な糊で – 「これが私のあり様で、みんなが認めるべきだ」「私にはそれを変える事も育む事もできない」というアイデアを手放さないでいる間違ったマインドフルネスです。その代わりに、正しいマインドフルネスとは、これらの要因のすべては発展させる事ができるもので、あるレベルで凍り付いてしまうものではない、そしてこの文脈では集中を養うために使う事ができるものなのです。

自己コントロールする

気分を害した時や、憂鬱さと対応する時の自分自身の対応を分析してみると非常に不思議なものです。間違ったマインドフルネス(憶念)を持っています。どういう意味でしょうか?私たちはこの悪い気分や憂鬱さにただしがみついて、手放しません。そして、はまってしまいますよね。あるいは罪悪感。罪悪感も間違ったマインドフルネスです。間違って、悪い事をしてしまった。でも、まあ誰でも間違えますよね、人間なのですから。しかし、間違ったマインドフルネスはそれにしがみつき、手放す事がありません。「私はなんてひどいのだ。私のやった事は本当にひどい」としがみつき、手放しません。自分がやった事がいかにひどい事かと自分を打ちのめすのです。それを手放す必要があります。ですから、正しいマインドフルネスは「気分は変わるものだ。それは原因と条件があって生じるものだ。だから、原因と条件を変えれば、気分も変る。永遠にとどまるものは何もない」です。

仏教の教えの中の非常に役立つ助言の一つは、基本的には自己コントロールをする事です。すこしばかり二元論的に聞こえますが、まあ何はともあれ、やってみる事です。朝はどうにかして起きる時のようなものです。ベッドで横になっていて、それは心地いいもので、少しぼんやりしています。その時に、自己コントロールをして、起き上がります。そのようにして、起きますよね。私たちにはそれをやる事ができるのですが、機嫌が悪い時や気落ちしている時も同じです。自己コントロールして、ほら諦めないでと自分を元気付け必要な事をやるのです。

マインドフルネス(憶念)の他の側面

マインドフルネス(憶念)はより一般的な文脈でも非常に大切です。何かを忘れる事を防止します。ですから、何かやる必要のある事があれば、それに集中して実際にやるという正しいマインドフルネス(正念)が欲しいのです。そうでなければ、忘れます。何かを覚えているかもしれません – それは好きなテレビ番組が今晩あるという事かもしれません – マインドフルネスは覚える事と関連しています。ですから、あまり大切ではない事にしがみついて、家族のために食料を買う事は忘れたりします。「ああ、店に行くのを忘れた。これを買うのを忘れた。ミルクも買い忘れた」と考えたりします。この時には、自分が保持する必要のある事は保てず「サッカーの試合を見るためにうちに帰りたい」と全く取るにたらない事は保持しているのです。

そしてさらには、何らかの訓練を実施している時には、それを保持する正しいマインドフルネス(正念)があります。つまり、どのような訓練でも良いのです。例えば、運動をしているのであれば、毎日運動をする事を保持して下さい。ダイエット中であれば、ダイエット中だという事を思い出して、ケーキを勧められても断ることです。正しいマインドフルネス(正念)です。

(仏教の訓練にはよく使われる)動物のイメージが役立つでしょう。さて、私たちが何かに取り組んでいたり、瞑想をしていたり、何か建設的な事をしていたり、誰かを助けている時に「ケーキがあるよ」と誰かが言うと「ええー、ケーキだ!ケーキだって!」と興奮してしまい、子犬のように飛び跳ねるのです。ですから「私は骨か何かのごほうびが欲しい時の子犬のように振る舞っているのだろうか?」と考えてみてみれば、これは馬鹿らしい事だとなれるのです。

マインドフルネスとは、自分がやっている事を保持して、このような事には気を散らさない事です。ですから、それは自分の身体やフィーリング(幸福か不幸かを感受すること)についてどのように見なすかということにも関わります。非常に幅広いトピックです。

マインドフルネスに関する質疑応答

それでは、これについて何か質問がありますか?

参加者: 親戚とか誰か身近な人といる時よりも、他の人たちといる時の方が、マインドフルネスを保てる自分がいるのですが、自分の倫理となるとマインドフルになる事は非常に難しい。自分のマインドフルネスが弱まるような人とつきあう時に、自分ができる事について何か助言はありますか?

アレックス: そのような状況での一般的な助言は、最初から非常に強い意図を設定する事です。ですから、親戚に会うとか、一緒に時間を過ごすとかの直前に「自分の感情を抑えよう。彼らがこれまで自分にいかに親切であったかを思い出すようにしよう。身内なのだ。私の対応が彼らのフィーリング(幸不幸を感受すること)を左右するのだから」などと強い意図を持つ事です。最初からその強い意図を持つ事が非常に重要です。

そして、最初から、私も彼らも人間なのだと自分に言い聞かせる事です。言い換えれば、自分が訪問しているあるいは向こうがこちらを訪問している時に、彼らを母親、父親、姉妹、兄弟などと、どのようなタイプの親戚であれ、その役割に特定化しない事です。何故なら私たちが彼らをそのように見て、それに固持すれば、このマインドフルネスは彼らをある役割(母、父など)だけに固持してしまい、その後は母親や父親の何たるかの投影とか彼らとの個人的なやり取りの歴史に対して − それは多くの期待と多くの失望を伴い – 反応してしまいがちです。しかし、彼らを一人の人間として、自分自身も一人の人間として単に関わってみて下さい。彼らがマインドフルではなく、私たちを未だに十二歳児のように扱いだしたとしても、自分まで十二歳児のようなパターンに落ち入るような反応をすることのないように努めるのです。どうやって?それは彼らも人間である事を思い出して、ゲームにハマらない事です。(踊るには二人が要るのです。)

ここに来る前に私の姉が一週間来ていました。彼女はずいぶんと早く寝るのですが、まるで母親のように「もう、寝なさいよ」などと私に言うわけです。さて、私がそこで十二歳児のようになって「そんな、早すぎるよ。ボクはまだ寝たくない。起きていたいんだ。何で、眠りなさいと命令するんだ?」と反応すれば、同じゲームを繰り返すだけで、何の助けにもならないし、自分は動揺するだけです。ですから、自分に言い聞かせる事は、彼女は私の事を気にかけているから、そうアドバイスしているのだという事です。彼女は私を怒らせるためにやっているのではありません。彼女は私にとってそれが良い事だと思っているのです。ですから、自分が八歳か十二歳の子供で姉が母親だと投影するより、彼女がしている事をもっと現実的に見るような努力をするのです。

ですから、彼らが来る前にこれにマインドフルでいれる意図、そして彼らが自分と一緒の時は、自分の動機を再確認して(事前に決めた事を一緒にいる時にもいつもそうするのです)。その動機とは、

  • 目標 自分の欲する目標とは何か?目標はこの人と良い関係を持つ事でしょう。彼らは私の事を大切に思う(気にかける)し、私も彼らの事を大切に思う。私たちは一緒に過ごした長い歴史があるのだから、私たちの目標は一緒にいる間はいい時間を過ごすことだ。

  • そして、それから、それに伴う感情は、一人の人間として気づかう(思いやる)感情です。

他にも役立つ見方は「悲惨な試練だ。親戚とつきあわなくては」とするよりも、これを挑戦として成長のための機会だと見る事です。コンピューターゲームをしている時のように「これは挑戦だ。自分にできるかな?」となると、楽しくなります。チャレンジです。「自分の両親と怒らずに夕食を終える事ができるかな?」

そこで、どんな両親でもよくやるように、両親がとやかく言い始めます。「どうして結婚しないんだ?もっと良い仕事を探せば?何でまだ子供がいないんだ?」などですね。(私に会った時の姉の第一声は「あんた、散髪しなきゃね」でした。)ですから、彼らが気にかけているから質問しているのだと気づいて「ああ、気にかけてくれてありがとう」と言うのです。

彼らが置かれた背景を考える事です。その多くが、友人たちに「息子さんはどうしているの?娘さんはどうしているの?」と聞かれ、彼らも社交的にならなくてはいけないのです。その事が気づかいの背景にあるのです。両親は悪意で「何故、まだ結婚していないのだ?」と聞いているのではありません。友人たちとつきあうためです。そして、あなたの幸福を気にかけているからです。それを認めて下さい。それが第一歩です。それを認めて「そちらには友人たちなどからのプレッシャーがある事は気がついているし、私の事を気にかけている事も気がついている。ありがたいことです」と彼らに伝えるのです。穏やかに。そして、穏やかなまま「まあ、そう簡単ではないのです」などと説明を続けます。私が思うに、このことで彼らも苦労しているということを認めることだけでも大きな助けになるでしょう。あなたが彼らのことをありがたく思い、気にかけていることが見えますから。そうなれば、十二歳児と親というよりももっと人間と人間の関係で、同等な立場の関係になれます。

このマインドフルネス(憶念)とは、私たちが保持して手放さないものとは何でしょう?しばしば、私たちは全く生産的でないものを保持したりします。よくあるのは「十年前にあなたはこれをした」「三十年前にああ言った」と過去の歴史だったりしますが、私たちはそれにしがみつき誰にもチャンスを与えないのです。この文脈で、今の彼らの在り様に集中することを阻むのですね。先入観を保持して、マインドフルネスは、心の糊は「これは大変なことになる。両親がやってくる」「両親と夕食するのだ。これは大変なことになるぞ」との先入観を保持してしまうのです。ひどいことになるとすでに決めつけた先入観で、自分は緊張するのですよね。だから、その間違ったマインドフルネスを手放せば良いのです。そして「彼らがどうしているかを知る良い機会だ。先入観なしに、展開する状況に対応しよう」との正しいマインドフルネス(正念)を適用するのです。

マインドフルネスについて何か他にもありますか?とても大切なトピックです。

参加者: この間違ったマインドフルネスの種類について、例えばテレビのサッカーの試合のことにはマインドフルで、買い物をするなどの基本的な事にはマインドフルでないなどに触れましたね。しかし、過去の偉大な師達の人生について読んだりすると、非常に深淵に訓練し高度に悟った人々が、修行以外にはほとんど何もできない例とかがあります。彼らはこれらの基本的なことができなかったのです。さて、この微細なバランスをどう考えれば良いのですか?

アレックス: まあ、私は二十九年間インドでチベット人の偉大な師たちと生活しました。彼らとかなりつきあいました。もちろん、個人的な差異はありますが、非常に高度に悟った偉大な師たちが、実用的な(practical)面でも完璧にこなせることを見てきました。すべてが各々の個性に依ります。訓練そのものが人生の実用的なことに対応することをできなくするとは決して言えません。一般的に、あまり実用的でない人もいれば、とても実用的な人もいます。ですから、私が会った偉大な師の中にはあまり実用的でない人もいましたが、私が個人的に関わった師たちのほとんどは非常に足が地に着いていました。

ゲシェー・ワンギャルはカルムイク系モンゴル人の偉大なゲシェーで、私がアメリカで最初に会ったゲシェーです。彼はアメリカ、ニュージャージー州で生徒たちと一緒に住んでいましたが、仏法(ダルマ)を説くだけでなく、裁縫や、僧衣の作り方や、料理や、家の建て方なども教えていました。信じられないほど現実的(practical)でした。私の主任教師のセルコン・リンポチェは、非常に複雑な問題を解決して対応することでよく知られていました。村のことや家族のことなど、人々はいつも彼の実用的な助言を請いに訪ねてきました。ダライ・ラマ法王ご自身も、スケジュールをこなしたり、物事に対応するなどに関して非常に実用的です。

もちろん洞窟で過ごし、すべての時間を瞑想にあてた偉大な師たちには、あらゆる類いのダーカーやダーキーニーや神々が見えたりしたなどについて読んだりしますが、それはある意味では非実用的ですね。しかし、大多数は全くそうではないと言えるでしょう。

参加者: ある破壊的な意図を止めることについて話す時、自分の感情を押さえたりすることを考えたり、それについて神経症的になったりすることもあります。バランスのとれたやり方はどのようなものですか?

アレックス: 怒りがある時のアプローチは、それを押さえたり、中に押し込むことではありません。私たちがやろうとすることは怒りの原因を取り除くことで、怒りをなくすことです。ですから、とても違います。

さて、訓練の最初のレベルは、最初の訓練は、自己制御(コントロール)であることは確かです。それが倫理的な自己規律の意味することです。ですから、例えば私が怒ってあなたを怒鳴りたいとしましょう。良い例があります。あなたには小さな子供が、二歳児がいて、その子にコップ一杯の水を持ってくるようにと頼むと、その子が持ってくる間にこぼしてしまいあなたは怒ります。「ギャー!絨毯にこぼした(コンピューターにこぼす、書類にこぼすでもいいでしょう)」そこで、怒り、その児を怒鳴りたくなったり、あるいは叩きなったりする気がします。ここで、二つの異なる道があります。一つ目は、自己制御を実践して子供を叩いたり怒鳴ったりしないことです。そして、その自己制御を土台(基)にして、次のいずれかを選択できます。

  • 怒りを押さえて中に押し込み、その子にイライラして不快に思う。

  • または、分析して「まあ、これの原因は私の怠慢にある、何故なら自分で起き上がって水一杯を取りにいかなかったのだから。それに、二歳児にコップ一杯の水を持ってきてと頼めば一体何を期待するというのだ?二歳児はこぼすだろうし、転ぶだろうし、注意深くない。それに、自分の子供を怒鳴ったり、叩いたりすれば、泣くだろう。大ごとになって、ひどいことになるだろう」と考えるのです。

ですから、ただ怒りを押さえて中に押し込むこととの違いは、実際怒る理由がないと分かりため怒りを消すことができます。そして子供に「何が起きたのか分かる?もう少し気をつけてね」などと、子供が泣き出すなどの大ごとにせずに、穏やかに言えるのです。

他に何かありますか?

参加者: このマインドフルネスを訓練する際の実用的な助言がありますか?役立つことにマインドフルネスを保つことは難しく、いつも失ってばかりいます。何か実用的な訓練はあるのでしょうか?

アレックス: マインドフルネスを維持する実用的な訓練は、前にも話したように、

  • 意図 思い出そうとする強い意図

  • 慣れ 慣れることとはノートに書くとか、これを私のウェブサイトで読むとか、何度も何度も読むことです。学校で何かを学ぶときはどうしますか?6X7をどうやって覚えましたか?覚えるまで何度も何度もやるということと同じプロセスです。ただ繰り返し、慣れることです。自分の行動においては、この意図が必要です。

  • そして、正知を使います。正知とはマインドフルネスを失った時に注意を戻す警報装置ですが、心の糊を再度持つのです。

このことすべてが、私が気にかける態度(bag-yod 不放逸)と呼ぶものに基盤を置きます。自分の行動に、自分の振る舞いが他者や自分自身に及ぼす影響を気にかけるのです。気にしなければ「かまわないよ、自分が何をしようが、どうやろうが気にしない」となれば、マインドフルネスを維持できませんし、どのような規律も持たないでしょう。それでは、何故私は気にかけるのか?それは人間だからです。私の母も父も人間です。彼らは幸せになりたい。不幸にはなりたくない。自分が彼らと話す態度や、彼らをどのように扱うかで、彼らのフィーリング(受)に影響を与えます。それは自分に対して彼らがどのような態度をとるかで、自分の感情が影響を受けることと一緒です。だから、彼らのことを気にかけるのです。そうして、マインドフルネスを維持できますが、マインドフルネスを失った時には正知で察知します。

まあ、これが私が開発した感受性の訓練の基盤です。感受性の訓練は、私のウェブサイトにありますが、他の人々がどのように感じているのかについて、自分の行動が他者に及ぼす影響について、感情的に過敏になること、心配しすぎることなどを乗り越えるための総括的な訓練です。私たちが – 自分の行動が他者や自分自身に対して与える影響について、他者や自分が置かれている状況で何が起きているのかについて – やりすぎたりやらなすぎたりということなく、本当にバランスのとれたやり方で気にかければ、マインドフルネスを維持するでしょう。そうする理由があるのですから。

私たちは本当に自分を調査しなくてはなりません。自分の動機は何か?そして、動機が「まあ、いい子(女の子であれ男の子であれ)になって、お母さんやお父さんに気に入られたい」であれば、非常に子供じみていますね。私の教師の一人が使ったイメージが好きですが「いい子になって、頭を撫でてもらったりして、しっぽをふる」犬のようになることです。これがあなたの欲しいことですか?馬鹿げてますよね。ですから、規律についてなどにマインドフルになるための適切な理由が必要ですが、それは土台に気にかける態度(不放逸)があると思います。八世紀のインドの仏教の偉大な師であるシャーンティデーヴァがそのように説明しています。

正しい集中(正定)

それでは、続けましょう。集中について、八正道の中から適用する第三の側面は正しい集中(正定)で、集中そのものです。これは対象に実際に意識(こころ)を置くことです。ですから、ここでできるようになりたいこととは、集中したい対象が何であれ、それに意識を保つことです。保持できれば、マインドフルネスが心をそこに引き止め、対象を失わないようになります。まずは対象をつかむことが集中するということです。

例えば誰かと話している時に自分の注意を怠るなどと、集中に間違いが起きる時には、集中すること、心をそれに置くために、注意力を使います。例えば、あなたが喋ることには興味がない、かまわないなどとなれば、実際は相手の話すことを聞いてもいませんね。相手が言っていることに集中していません。あるいは聞いている暇がない。

あるいは、ここで起きていることは、以前に比べて最近その傾向がさらに増しているのですが、私たちの注意力は分断されて何かに十分に集中していません。テレビでニュースを見ると、ここでもあるかどうかは分からないのですが、テレビやコンピューターの画面の中央に人がいてニュースを報道している時に、画面の下の方では違うニュースの情報が流れています。そしてまた、隅の方にはFacebook のフィードなどがあったりと、そのどれにも十分に集中することはできません。ですから「私は多重に作業をこなせる」などと言ったりしても、仏陀であれば別ですが、これらのすべてに100%集中して多重にこなすことは誰にもできません。

誰かが話しかけようとしている時に、私たちの意識(こころ)は携帯電話に置かれているのです。これは間違った意識の置き方です、何故なら相手がこちらに何かを聞いているのに、自分は気にもかけていないのですから。私たちは、気が散って、暇がないのです。「ああ、忙しすぎる」となり、誰かがやったり言ったりすることや、相手が何らかの交流を求めていたり、返事を期待している時に、こちらは注意さえ払わず、集中しないで、意識を置くことをしないでいるのです。

そして、これも最近頻繁に起きつつあることですが、何かに意識を置いたとしても、それを維持することが非常に難しいことです。物事があまりにも早く変化することに慣れ、これを見たかと思うとそれにあれにと目移りして、退屈してしまい、長時間の間何かに注意をすることが難しいのです。ですから、そのタイプの集中は – これにほんの少しの間、あれにほんの少しの間、そしてあれにほんの少しの間とするのは – 実は障害です。間違った集中です。適切に集中したいのであれば、興味を失ってしまい退屈して別のものに移行するのではなく、必要な時間だけ集中する必要があるのです。

問題は私たちがエンターテイメントを欲しがるということなのです。それは楽しませられることで得る瞬時の快楽が満足感をもたらすと考える間違ったマインドフルネスに戻りますが、私たちはもっともっとと渇望するのです。何故エンターテイメントを欲しがるのでしょうか?インターネットでは限りない可能性を提供しますが、自分ができることや見れることの可能性が増えるだけ、さらに退屈して何かしら楽しませてくれるものを探そうとして緊張するということを、社会学者は発見しました。そして、何かを見ても「まあ、もしかすると他にもっと楽しませてくれるものがあるのかもしれない」と考えて、何事にも集中することはできません。ですから、難しいことですが、自分の人生を単純化しようとすることが非常に役立つのです。同時にあまり多くのことに関わらないで、自分の集中力が発展すれば、自分が処理できることや関われることを増やしていけます。

集中して、それが良い集中であれば、これに集中してそしてあれに集中して、そしてあれに集中すると – それは気が散ることなく、その時は一つのことだけに集中します。例として医者があげられるでしょう。医者は一人の患者から次の患者へと対応します。医者はある時間の間は、次の患者のことやその前の患者のことを考えずに、今の一人の患者に集中する必要があります。ですから、医者は一日のうちに多くの患者を診るのですが、その時その時に一つのことに完全に集中します。これは集中にとって非常に良いことです。

これは非常に挑戦的なことだと言わなくてはなりません。自分のことでも分かるのですが、ウェブサイトを管理するのに、多くの言語をはじめ信じられないほどの色々な作業に関わるのですが、ひとつのことに集中することは困難です。他にも多くのことがどんどんやってきます。ですから、大きな挑戦としては、一つのことに集中して、何か他にやる必要のあることを考えるような気が散らないようにして、マインドフルネスを保って、やらなくてはならないことが他にもあるということを忘れないでいることです。複雑なビジネスに関わる人も同じようなことでしょう。

さて、限られた時間内にあれこれと話すことがあるので続けましょう。正しい集中を発展させるために、結論として、仏教の教えには集中力をさらにさらにと養うためには、決められた段階がありますが、さらに集中力を得るためにはどうすれば良いのかと、それは仏教科学の一部として考えていいと思います。

判別する認識の訓練

さて、何が正しくて何が間違っているかを、何が役立って何が害となるのかを区別する判別する認識についてです。これには、八正道の最後の二項目があります。

  • 正見(yan-dag-pa’i lta-ba

  • 正しい意図や動機 (正思惟 yan-dag-pa’i rtog-pa)

正見は何が正しくて何が正しくないかを、何が役立つことで何が害のあるものかを正しく判別することを土台(基)に、私たちが何が真実であるかを信じることに関わります。正しい動機の思いや意図は正見が導く建設的な心の状態です。

間違った見方(邪見)

正見ですが、私たちは正しく判別する認識か間違った判別する認識を持てます。(何が役立つことで何が有害かを判別することができることについて話しています。)

  • 私たちは正しく判別することができて、それが真理だと信じます。

  • あるいは、間違って判別してそれが真理だと信じます。

ですから、間違った見方とは間違った判別をしてそれを信じることで、正しい見方は正しく判別してそれを信じることです。

間違った見方とは、例えば、自分たちの行動があるものは破壊的で、あるものは建設的であるとの倫理的な側面を持たないと断言して信じることで、自分の行動は経験上どのような結果をもたらすこともないと信じることです。これは多くの人々が持つ心的な特徴で「何でも良い」「どうでもいい。何も関係ない。どうでも良い。私がこれをやろうがこれをやるまいが、関係ない」という風に現れます。これは間違った考え方で、何も関係がないということはありません。喫煙するかしないかは大切です。「別に、どうでもいい。関係ない」ということはありません。喫煙すれば、そのネガティブな結果を健康面で経験します。喫煙しなければ、うまくいけばそれを予防できます。

あるいは、自分自身を向上させることや、欠点を乗り越えることなどはできるわけがないと信じ、それにかまってもしょうがないとなります。自分の状況を変えるすべが何もないと信じるのは間違った判別です。そうですよね?必ず自分にできることがあるのです。物事はコンクリートのように固定しているのではありません。

あるいは、他者に親切になろうとしたり、助けようとすることには何の意味もないことだと信じて、みんなをうまく利用して、できる限りの利益を自分が得るべきだとなると間違った判別です。それが幸福をもたらすことはありません。それがもたらすものは対立や、嫉妬、他の人々が盗むのではないかと心配することなどです。

数多くのタイプの間違った判別(する認識)があります。それは苦しみとその諸原因に関わることもあります。例えば、自分の子供が学校や職場でうまくいっていないとか、あるいは子供が自分に会いたがらない、その子供が幼いのか大人なのかに関係なく、何かがうまくいっていません。間違った判別は「すべては私のせいだ。親としての私の責任だ」と考えることです。これは因果関係に関する間違った判別です。事物はただ一つの原因で生じることはありません。事物は非常に多くの原因と条件の組み合わせで起きます。私たちも一因となったのかもしれませんが、問題の唯一の原因ということはありません。そして、時には私たちは一因でさえないのですから、完璧に間違った判別です。例として、非常に心が乱れた人がいて、サッカーの試合に行き、自分のチームが負けると、その人は自分が試合を見にきたことが唯一の理由だと信じるのです。自分は疫病神ですね、「チームが負けたのは私のせいだ」と馬鹿げたことです。これは因果関係に関する間違った判別です。

正しい見方(正見)

ですから、正しく判別する認識は非常に大切です。それには、私たちは現実について、何かが生じることに数多くの原因と条件が影響するとの因果関係の現実などを学ぶ必要があるのです。例えば、天気のように、ただ一つや二つではなく数多くのことが天気に影響を与えます。ですから「私は神のようで、ただ一つのことをやれば、自分の子供の全てが変るし、自分の仕事場での状況もすべて変る」と誤認しないことです。物事はそのようには機能しません。

それが正しく判別する認識です。常識と知性が要求されます。そして、もちろん、正しい判別に集中し続ける必要があります。そのためには、規律が必要です。そのようにして、これらは互いに関連しています。

正しい意図(正思惟)

最後は、正しい動機を持った思いで、正しい意図(正思惟)のことです。何が役立つことで何が有害かを、何が現実で何が現実ではないかを正しく判別した後は、自分がどのように行動し、どのように話すか、そして物事に対する自分の態度に影響します。これが間違った動機の思い(間違った意図)とか正しい動機の思いです。それについて見てみましょう。

肉感的な欲望

間違った動機の思いは – きれいなものを見るとか、音楽、おいしい食事、良い服などの – 感覚の対象に対しての渇望や執着に関わりますが、肉感的な欲望が最も大切なものと間違った判別をすでに下しているのでそうなります。しかし、正しい判別をしていれば、平等心を持てるでしょう。ここで、平等心とは感覚の対象に執着しないバランスのとれた心のことです。

それでは、間違った判別の例として「今晩夕食に何を食べるのか、どこで食べるのかは本当に大切なことだ。正しい場所を選んで、正しいメニューを選べば、それが私に幸せをもたらす」があげられます。そして、あなたはそれが心配で「今晩はどこで食事するのだ?」と考えていますから集中することさえできません。もし正しく判別していたのなら「それは大切なことではない。今晩どこで夕食するかとか、テレビで何をやっているかなどよりも、人生にはもっとはるかに大切なことがある」とバランスのとれた心を持て「どこでもかまわない。それほど重要ではない。どこか探して食べれば良い」となれます。それが平等心を、バランスのとれた心を持つことです。

悪意

そして、間違った動機の思いまたは意図の第二の悪意ですが、それは誰かを傷つけたい、害するような原因を作りたいと望むことです。誰かが間違ったことをした時に – 子供が水とかお茶をコンピューターにこぼした時などにあなたが「悪い子だ。ひどい子だ」と言ったりします。これは「君は悪い。だから罰さなくては」と良いか悪いとだけ考えるまちがった判別です。

二歳児が大人のように責任を持って行動するとの間違った判別を下したのですが、馬鹿げたことです。それは明らかに間違った判別です。二歳児が長い間電車でおとなしく座って、大人のように振る舞うと考えることは馬鹿げています。しかし、その様な間違った判別をすると、子供が通路を走り回ったり、大声ではしゃげば、あなたは本当に怒って、子供を叩きたくもなるでしょう。しかし、正しい判別ができれば、慈悲深くなれるでしょう。それは、他者を助け、幸せをもたらせたいと望むことです。そこで、準備をします。子供と電車で長旅にでるのであれば、ぬりえの本とか子供が喜ぶものを持っていきます。この慈悲深さは強さと赦しと愛(他者が幸せであって欲しいと望むこと)を含みます。子供が間違いをして大声で騒いでも、嫌がらずに許します。強さを持っているために、そのような心の状態を保てるのです。

冷酷さ

そして第三の間違った動機の思いですが、それは冷酷さで満ちています。ここにはさまざまな側面があります。

  • フーリガンになること それは私たちが他者が苦しんで不幸になることを望む冷酷で慈悲にかけることです。私たちは他のサッカーチームを応援する人たちを単にひどい人たちだと判別します。そして、自分たちは荒くれのようになって彼らに戦いを挑み、痛めつけてもいいと考えます。なんて馬鹿な判別でしょう。

  • このタイプの二番目は自己嫌悪です。自己愛に欠け、自分が幸せになることを望まないで、自分の幸せを故意にだめにします。ですから、「私はだめだ。私は悪い人間だ。幸せになる権利がない」と間違って判別し、ある意味では、不健全な関係に入ったり、不健全な習慣を身につけたりと自分自身を罰します。食べ過ぎて肥満になる人々は普通自己嫌悪で満ちています。自分自身に対してネガティブな態度を取るのです。パートナーが欲しくても、食べて食べまくってさらにさらにと魅力のない姿になり、体重が二百キロや三百キロになればパートナーは見つかるわけありません。

  • そして、最後が邪悪な快楽を持つことで、他者が苦しむのを見たり聞いたりして冷酷に喜ぶことです。「この政治家はだめだ。彼はひどい人だ」と判別して「すごい!負けたよ」と選挙で負けると喜ぶのです。自分が嫌いな人に何か悪いことが起きると「それに値する」と、ある人々は悪い人で、罰されて当然とかことが悪くいって当然で、その他の人々は特に自分たちはすべてがうまくいくべきだと間違って判別しています。

ですから、正しい判別を土台にした正しい動機の思いとは、非暴力的な態度で冷酷ではない態度です。それはただ怒りが欠如というのではなく、少しも動じない冷静さです。心は乱れません。それは苦しんでいる他者に害を与えたくないとか、苛立たせたくない、困らせたくないとする心の状態です。他者を「一人の人間として、私と同じように彼は幸せになりたいし、不幸にはなりたくない」と私たちは正しく判別します。そしてその正しい判別を土台にして、彼らを害することはやりたくないのです。彼らに悪いことが起きると私たちは幸せになれません。彼らを苛立たせたり困らせたくはありません。さらに、彼らがその苦しみとその原因から自由になって欲しいと望む慈悲心もあります。それは誰もが苦しんでいて、誰も苦しみたくはないし、苦しんで当然だという人はいないということが分かるからです。人々が間違ってしまう時は、彼らは混乱しているからで、悪い人だからではありません。ですから、正しい判別と正しい動機を持った思い(正思惟)で、それから生じる意図は自ずと正語、正業、正命になります。

八つの項目を相互に調和させる

これら八正道の項目は相互に調和しあいます。

  • 正見と正思惟は修行の適切な基盤になり、私たちは正語、正業、正命を実践します。自分の行動の結果や他人の状況などについての何が正しいのかを判別します。私たちの意図は彼らを助けることで、害さないことですから、それ故に破壊的になるような害になるようなことにならないように、彼らに対して話したり、行動したり、ビジネスをする規律を持つのです。道理にかなっています。相互に調和しあいます。

  • そして、それを土台に、自分自身を向上させようと、さらに良き資質を発展させ、自分の身体やフィーリング(感情)などについての奇妙なアイデアに気が散らないようにします。そして集中力を使い、何か有益なものに、さらに良き資質を発展させることに焦点を当て続け、正しい判別する認識を伴う集中を使い、それに伴う意図を使います。

ですから、すべてが相互につながっています。

翻訳者: すみません。有益な資質の後、分からなくなってしまいました。

アレックス: あなたが焦点を当て続け良き資質を発展させようと集中すれば、もちろんそれを正しく判別する認識に適用します。さらに深く何が有益か、何が有害かを知り、それからそれを実現させよとする意図はさらに強いものとなるでしょう。

ですから、これらの三学と八正道を順序立てて提示することもできますが、そしていくつかの違う順序が可能ですが、その究極の目標はそれらをまとめて統括された全体として実践に活かすことです。

質疑応答

最後の質問のために、あと数分ほどあります。

参加者: 私たちが自分は何かを変えることができないと考えることが私たちの偽りの見方の一つだと指摘しました。

アレックス: 自分自身を変えることができない

参加者: 仏陀はすべてが相互依存していると言いました。非常に異なる多くのことが相互依存していて、私たちはこの体系を理解できません。また、ある状態が前の状態との関わりなく現れることは不可能です。そこで、私たちは現状は過去の状態に依存するし、そして未来の状態の原因となると結論できます。そこで、質問がわくのです。このメカニズムの中に自由意志の場所はあるのか?そして、仏教にはこのメカニズムを脱出する状況に関わることができるのか?

アレックス: まあ、ここには非常に多くの要因が関わっています。自由意志について考えると、それは何の原因もなく何でもできるということを暗示します。それは不可能です。すべてが原因と条件から生起します。それが真理です、しかしそれは私たちが実際に何かをする努力をする(自由意志と呼ばれています)ことができないというのではありません。

私たちが努力すれば、もちろん、それには理由があります。つまり、あれの諸原因やあれの諸条件がありますが、この極端にいってはなりません。二つの極端があります。

  • 何の原因もなく絶対何かができる。

  • あるいは、私にできることは何もない、すべては前もって決定されているのだから。

しかし、そのようなものではありません。私たちは物事に対して努力することや選択をすることを見極めるべきです。ここにすべての選択がメニューにあって、私はそれらの選択項目とは離れていて、何をするかをその中から選ぶというのではありません。

これを二元論的に見ることが間違っています。事物はそのようには存在しません。人はただ努力するのです、やってみるのです。精神的(スピリチュアル)な師から、仏陀からのインスピレーションなどが私たちを助けてくれるかもしれません。そして、そのような助けがあり私たちがインスパイアされれば、それも原因の故です。

ですから、ここでの問題は自由意志と決定論の二つのカテゴリーに分けて考えていることです。それは間違った判別です。それはメニューから自由に選択できる私か、固定して何も変化できない状態に置かれた私が実体として存在すると考えることを土台にしています。これらの二つのカテゴリーは存在しないのですから、その中で分析しようとすることそのものが間違っているのです。

しかし、あなたの質問は非常に深遠な質問で、ただ簡単に答えられるものではありません。簡単な答えに対して「ああ、そうだ、そうだ、分かった」とあなた自身も納得することはないでしょう。因果関係に関する非常に深遠な熟考と理解が本当に要求されるもので、原因と結果が実際にどのように働くのかを説く因果関係(縁起)の空性と呼ばれるものを理解する必要があるのです。その鍵となるものは、因果関係を、この全体から離れた私が選択できるかあるいは何か他のものに強制的に何かをさせられるかのどちらかだと二元的に見ることをしないことです。私はチェスの駒のように、自分の外部の決定するものに操られているとするのは二元的な見方で、ここでの問題が二元論だということです。

何か他にもありますか?最後の質問になります。

参加者: 適切な食事や適切な睡眠時間や適切な運動量などと、他者だけでなく自分にも慈悲心を持たなくてはいけないと指摘しました。しかし、高度に悟った修行者たちがリトリートで、長時間座ると身体は凝って、食べ物も適切に取らずに、睡眠も十分に取らないことを読んだりします。この二つの関連性はあるのですか?生徒の中にはそのような者たちと同じことをしようとする人もいます。

アレックス: まあ、それは大きな間違いです。それは狐がライオンが飛び越えたところを飛ぼうとすることだと言われています。ミラレーパや他の偉大な師たちと自分たちが同じレベルにいると考えることは完全に傲慢ですよね。私たちはそのレベルにいません。ですから、彼らを模倣しようとすれば、ただ自分を傷つけるだけです。もし私たちが彼らが達成した状態を自分も達成したいのであれば、現実的になって一歩一歩とそのレベルに行けるように訓練することです。

非常に高度に発展した集中のレベルに達する時には、身体的にも精神的も柔軟で適応した軽安と呼ばれる状態を得ることができます。ですから、凝っていないのです、身体は凝っていません。彼らは自分の身体のエネルギーなどをコントロールできるので、睡眠もあまり要りません。睡眠時間が短くても打撃がないのです。食べるものも少量でも膨大な量のエネルギーを得ます。ですから、彼ら自身は苦しみませんし自分をないがしろにしているのでもありません。このような非常に高度な状態を達成することの一部として、このような能力を得ているのです。しかし、私たちはそのレベルにいません。

そして、これらの偉大な師たちが他者に見せるのは、しばしば人々が彼らとより良い関係を可能にするための演技です。私自身の教師の例をあげましょう。セルコン・リンポチェは非常に年老いて、多くのリンポチェたちがそうでしたが彼も太り過ぎでした。私は彼と九年間、ほとんど毎日一緒で、彼が起き上がったりする時には手を貸していました。しかし、ある時、僧侶たちが集まって経典を、みんながそれぞれ違う部分を、声に出して読む儀式に参加した時です。経典は製本ではなくページがバラバラです。ダライ・ラマ法王がここに座り、セルコン・リンポチェはその側に座り、私は後方に座っていました。ダライ・ラマ法王が読んでいる時に、風が吹いて、彼が読んでいたページが床に落ちました。セルコン・リンポチェは、普段だと起き上がるのに私が手を貸さなくてはいけないのに、二十歳の人のように飛び上がってその紙をつかみ、ダライ・ラマ法王に渡しました。ですから、彼が起き上がるのに手伝ってもらうのは演技なのです。彼は自分で起き上がれるのですから。

セルコン・リンポチェはいつも自室で一人で寝ていましたが、ある時彼と旅した時に、リンポチェの部屋をチベット人の従者と別に取ることができない時があり、従者も同室したときがありました。リンポチェは他のみんなが寝る前に寝につくのですが、みんなが寝についた後、リンポチェは瞑想をして、ナーロの六法のヨガ(これは太った老人ができるなんて誰も想像できません)をしているのを同室した従者が見ていました。そして、朝みんなが起きだす頃には、彼は横になりその夜の間ずーっと寝ていた振りをしたのです。

ですからこのようなことがあるのです。彼らは他者に自分が普通の人のような印象を与えるのですが、その資質を隠すのです。これが少なくとも何人かの偉大なラマたちのやり方です。非常にインスパイアされます。私たちも三学や八正道を通してその段階にまで発展できるのです。それが出発点です。今生を改善するためにだけでもいいでしょう。あるいは、より深いレベルで、来世を改善するため、制御のできない輪廻転生と苦しみからの解脱を得るため、そして悟りを得るために、みんなを最善の形で助ける能力を得るためにすることもできます。

これで最後です。どうもありがとうございました。この講義が有益でありますように。