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日々の生活における三学と八正道

アレクサンダー・ベルゼン
2013年6月 ウクライナ、キエフにて
未編集の文字起こし

セッション 2 正業、正命、正精進

復習

昨晩は、三学(三つの訓練)についての講義を始めて、下記の観点から論じました。

  • 仏教科学と哲学のみの観点、それは私たちの感情などを扱う心の基礎科学と倫理学のことです。ここでの焦点は、基本的に人生の質を向上させるために、これら三学からの教えを使用することです。

  • そして、宗教としての仏教ですが、カルマ(業)、輪廻転生、解脱、悟りなどに焦点を置きます。そして、私たちはより良き輪廻転生を得るための、解脱を得るための、悟りを得るための補助としてこれらの三学を使用します。

これらの三学をどのレベルで実行しようが、その際はいつも問題や苦を乗り越えるための助けとなる事に焦点を当てます。そして、その方法は自分たちの問題や苦の原因を特定しよう(identify)とすることと、これらの苦の原因を取り除くための助けとして八正道と知られる事を適用しようとすることです。

私が今笑っているのは、この蠅が私の事を好きなようで、顔の近くにいたい様です。仏教徒の視点からは、いつも「私と一緒に居たがるこの蠅は、その前世(前生)では誰だったのだろう?」と思いめぐらします。それを叩き潰そうとするよりは少しばかり平和的な方法ですね。

ともかく、三学は倫理的な規律 (tshul-khrims 持戒)、集中心 (ting-nge-’dzin 禅定)、そして判別する認識 (shes-rab 智慧)ですが、私たちの日々の生活の中で育むと非常に役立つものです。

  • 私たちが他者と関わる時には、自分はその人たちとどのように行動しているのか、どのように喋っているのかについて、あるいは何らかのビジネス上の取引がある時は、ビジネスのレベルでどのように交流しているのかについて観察する事が重要です。私たちは害となるような、破壊的な事をしないようにする倫理的な規律が必要です。

  • また、適切なやり方で交流するためには、相手が何を話しているのか、彼らのニーズは何か、彼らには何が起きているのかについて集中する必要があります。注意を怠ると、心はあちらこちらへと散乱します、あるいはある人と交流している最中に、こちらの携帯が頻繁に鳴ったりして、私たちがSMSを送るなどとなると、その人とのコミュニケーションが難しくなります。

  • 他の人に集中できたのであれば − 彼らが何を言っているのか、どのように行動しているのか − 次は、判別する認識力を使い、何が適切な反応で、何が不適切な反応かを判断する事ができます。これらの二つを判別する必要があります。そうして適切に行動し、適切に喋り、適切なやり方で他者と関われるようになります。

ですから、これらの三学は相互に絡み合い強化し合います。それがこれら全てを同時に適用する必要があると言う理由なのです。

そして、私たちが他の人々と一緒にいなくても、交流していなくても、自分自身のためだけにでもこれらの三学は必要です。自分自身と取り組む時に大切な事は、

  • 自己破壊的に行動しないこと

  • 自分の心は焦点を持つことで、達成したい事が何であれ達成できること

  • そして、自分の基本的な知性を、何が適切な行動で、何が不適切な行動かを判別するために使うこと

さて、これらが高度な訓練を自分の個人的な状況や、社会的な交流の両方ともに応用できます。そのようにして、これらは日々の生活に応用できる非常に基本的な方針です。

私が高度な訓練と言った時は、うっかり口を滑らしました。それが最も頻繁に使われる仏教用語です。高度な三学 (lhag-pa’i bslab-pa gsum 三勝学)とは、解脱や悟りを得るためにこれら三学を使うと言う事です。それ故、高度な(lhag-pa’i)と言われているのです。これらの三訓練を高度なゴールに到達するために、今生や今後の諸来生(後生)だけでなく、さらにより高度な目標のためにこれら三学を応用するのです。

それから、私たちは八正道と呼ばれる観点から、これら三学をより詳細にわたって見始めるのです。そして、これらの最初は – 八正道は三つのグループに分けられますが – 最初のグループは、倫理的な自己規律(持戒)に関わる三項目です。持戒に関する三項目とは、

  • 正語 (yan-dag-pa’i ngag).

  • 正業 行動上の正しい境界 (yan-dag-pa’i las-kyi mtha’)

  • 正命 (yan-dag-pa’i ‘tsho-ba)

昨日は、正語について話しましたが、四つの破壊的な言葉遣いを − 嘘をつくこと(妄語)、仲違いをさせる様な言葉遣い(両舌)、粗暴で乱暴に喋ること(悪口)、雑談(綺語)を − 避けるためには規律が必要だと分かりました。破壊的な言葉遣いのかわりに、適切で建設的な言葉遣いをする規律を持つことです。それは真実を語り、調和を生み出すように、親切で優しく、意味のあるように喋り、そして(くだらない事で人の邪魔をするとかではなく)適切な時に適切で建設的な方法で喋る事です。そして、他者の質問に答え、彼らが不幸な時には慰めるなどと、他者の助けとなるように喋るような規律が必要です。

間違った行動

続けましょう。八正道の第二の項目は行動上の正しい境界(yan-dag-pa’i las-kyi mtha’)についてです。これは仏教の専門用語(仏教用語)です。私たちが境界 (mtha’) について話す時は「私はこの境界までは行動するが、それを超えたりはしない」とするある限界について話しています。これは、三種類の破壊的な行動を指しています。

  1. 生き物を殺すこと(殺生)

  2. 盗み、自分に属さない物を取ること(偸盗)

  3. 不適切な性行為 (邪淫)

さて、これらは何について述べているのでしょうか?

殺生

殺生とは誰か他のものの命を奪うことです。人間だけではなく、狩りや、漁、昆虫を殺す事なども含まれます。

さて、私が思うには、狩りや漁を諦める事は私たちの多くにとっておそらくそれほど難しい事ではないのですが、昆虫に関してはもっと難しいと思います。来世(来生)や前世(前生)に触れなくても「この蠅は前世で私の母親だった」などとしなくても、他にも数多くのアプローチがあります。ここで主に強調される事は、自分たちを苛立たせるものがいる時に、自分の最初の反応が殺生であっては欲しくないということだと思います。殺生は自分の好きでないものを暴力的に破壊したくなる習慣を蓄積し、顔の周りでブンブン飛び回る蠅を超えて対象が広がり始めるのです。私たちが欲する事は、殺生の代わりに何らかの平和的な方法で、自分をイライラさせるものと向き合う方法を探したいということです。蚊でも何でも良いでしょうが、昆虫に関しては壁に停まればコップと紙を使い外に出す事ができます。自分が好きではない何かに対して、数多くの状況で平和的に関わる方法を探せますし、その方法は実に簡単なものです。

私もそうでしたが、インドに住めば昆虫と共存する事を学びます。インドに住む全ての昆虫を退治するなんて事はあり得ませんね。私はいつもインド旅行の宣伝文句として「昆虫が好きなら、インドを大好きになる」がいいと考えていました。インドに住み始めた最初の頃は、私の育った背景として昆虫を好きになれる様なものではなかったのですが、SFは大好きでした。ですから、他の惑星に行って、その惑星の生命体が昆虫の形だと想像してみました、そこで自分が誰かに会うたびに、私のやりたい事がそのものを踏みつぶすとか、叩き潰すだけだったらひどい事ですよね。そこで、自分自身を昆虫の立場においてみて「昆虫はただ自分の事をしているだけだ」となれば、一つの生命体として尊敬し始めます。

人間の中にも害する人々がいるように、もちろん害虫もいます。ですから、時にはそれらをコントロールするために強行手段をとらなくてはいけない事もあります。しかし、最初の手段としては平和的な手段を取った方が良いのです。それは他人との対立であったり、家に蟻やゴキブリなどがはびこっている時にも当てはまります。

ここまでが、殺生についてでした。

盗み(偸盗)

そして、第二が盗みです、自分に属さないものを取ることです。当然ながら、人々は − ほとんどの人が − 自分の所有物よりも命の方に執着しますが、それでも私たちが誰かの所有物を取れば、その人に大変な不幸を作り出し、こちらも「捕まるのかな?」などと落ち着かなくなります。

さて、これらの事を論じる時は、私たちは自分自身の問題を避けたいのだという事を思い出して下さい。もちろん、あなたが昆虫や魚を殺せば、殺されたものにとっても問題です。しかし、自分自身の問題は、例えばあなたは昆虫がとても苦手であれば、いつも「蚊が入ってきて、私の空間を邪魔するのじゃないか?」と病的に心配ばかりしているで、いつも監視しているでしょうね。あるいは、夜中にあなたは起きだして、何かがそこにいると見つけ出そうと部屋で狩りの態勢を取るのです。非常に不愉快な心の状態ですね。ところが、自分が好きではないものを対処するために平和的な方法を使おうと努めれば、心は楽になります。リラックスします。

仮にあなたがいつも暴力的な方法に頼ろうとすれば、緊張して偏執的になり、心は落ち着かない状態になりコントロールを失いますね。蚊や蠅を叩こうとして、それが停まった貴重なものをつい壊したりします。蠅を取るために、自分のものを壊すわけです。制御なんてありません。ところが、問題を解決するために何らかの平和的な方法を探そうと努めれば、もっと穏やかに、理性的に判別する認識を使えます。

ですから、自分に属さないものを取る、盗みに関しても同じ事です。捕まるのじゃないかとビクビクしているので、コソコソしなくてはなりません。通常、盗みには非常に強い欲求が土台にありながら、何かを得るために要求される事をやるだけの忍耐は欠け、誰か他の人から盗んでしまうのです。

もちろん、殺生や盗みが反対の動機による時もあります。

  • 非常に貪欲で動物や魚を殺す事があるでしょう。しかし、これも状況に依存します。食べるものが他に全くない時は別です。しかし、他に食べるものがあれば、これは別問題です。

  • そして、怒りが原因で盗む事もあるでしょう。誰かを傷つけたくて、その人に属するものを奪うのです。

ですから、昨日も話したように、これらの破壊的な行動は、心を乱す感情を土台にしています。

不適切な性行動(邪淫)

そして、第三の破壊的な行動のタイプは、不適切な性行動(邪淫)です。これはとても難しいトピックです、何故なら多くの性的行動の裏には強力で衝動的な動因である渇望(’dod-chags)があるからです。基本的なガイドラインがありますが、それは境界についてです。

  • 性行動において害を作らないこと、例えば強姦するとか、あるいは非常に暴力的なやり方で相手を傷つける様なことなどです。これはわかりきったことで、非常に明らかなことで、私たちが避けたいことです。

  • 自分の思い通りになるように誰かに強制することもそのマイルドな形です。誰かに押し付けることには、自分のパートナーがやりたくない時に性交渉を持つなども含まれます。

  • そして、他人のパートナーと性交渉を持つことや、あるいは自分にパートナーがいる時に他の人と性交渉すること。ですから、不倫は、どれだけ気をつけても、いつでも必ず問題を作り出しますね。

しかし、不適切な性行動(邪淫)には他にも数多くあります。背後にある全体的なアイデアは、動物と同じようには振る舞いたくないという事です。動物は時を選ばず、誰にかまうのでもなく、好き勝手にいつでも他のものに乗りかかります。動物は本能的な欲望に完全に支配されていますが、私たちが避けたい事です。

では、ある境界を設定するために、私たちは何をしたいのでしょうか?行為の境界と呼ばれている事を思い出して下さい。それは「この範囲の中で私は性的行動をとる、その外には出ない」と言う事です。それは頻度について、体位についてなどと、何であれあるガイドラインを持つ事です。動物のように、気分次第で好き勝手にいつでもなどという事ではなく「あなたとこれはやるけど、あれはやらない」などの境界の設定です。これは規律の面で非常に重要な事です。規律はその境界を超える事を避けることですが、これはただ本能的な欲望をベースにしているだけで、決して必要な事ではないと私たちが気づくことです。例えば、瞑想のリトリートの時「この瞑想のリトリートの期間は、性行為をしない」などと、それが何であれある種の境界を設定するのです。ポイントはある境界を持つ事です。

酒や薬物の摂取

さて、酒や薬物の摂取は、これらの間違った、破壊的な行動には含まれてはいないのですが、酒や薬物を放棄する事は自己発展と言う面で非常に重要です。私たちは集中心を発展させたいのです。規律を発展させたいのです。酔っぱらうと、全ての規律を失いますね。ある種の幻覚剤を取ると、全ての集中心を失いますし、例えば、マリファナを吸うと、心は絶え間なくさまよいます。ですから、さまざまな薬物や酒などの効用を見てみると、そして自分自身の個人的な心、感情、行動などの発展と言う事に関して、自分が達成したい事と比較すると、酔っぱらったり、薬物でハイになる事はそれと完璧に矛盾する事が分かります。障害を生むのです。そして、これらの障害は酔っぱらったり、気分が高揚してハイになっている時だけでなく、例えば二日酔いなどとその効果は持続します。ですから、まず始めに限界に関してのある境界を設定することで、最善策は完璧にやめる事でしょう。

行いの正しい境界(正業)

ですから、倫理的な規律の一面は、破壊的な種類の行動を避ける事です。他の面は、建設的な行動に携わる事ですが、これが正業と呼ばれています。

ですから、他者の命を奪うかわりに、命を保護することを手伝うのです。つまり、これは広範囲で応用できることが分かります。環境を完全に破壊して、動物が住めなくなったり、湖を汚染して魚が全部死んでしまうようなことより、自然環境を大事にするのです。それは命を保護するのに役立つ方法です。自分の犬にえさをあげる事も、命の保護に役立つ事です。太らせて殺して食べるために豚にえさをあげるのではなく、豚がすくすくと育つためにえさをあげる事もそうです。また、これには病人の世話をする事も含まれます、彼らの命を保護するのに役立ちます。誰かが傷つけば助けようとするなどと、このようなことで生命を守るのです。

蠅について考えてみて下さい。インドでは蠅とつきあわなくてはなりません。蠅でもハチでも、部屋に飛び込んで来たとしましょう。蠅やハチはそこにいたくはないですよね、特にハチはそうですが、外に出たいのです、ところがどうやって出るのかを知らないのです。ですから、蠅が間違ってあなたの部屋に飛んできたら、あなたがそれをただ殺してしまう事は、あまり良い事ではないですよね。蠅が外に出るのを助けたり、窓を開けてあげて蠅が外に出られるように窓の方に誘導するだけでも良いのです。そうすれば、その命を保護する事に役立っています。蠅も生き延びたいのです。鳥が間違って部屋に飛び込んできたら、銃を取り出して撃ったりしませんよね。多分、窓を開けて、鳥が外に出れるようにするはずです。さて、鳥と蠅の違いは何ですか?大きさですか?出す音ですか?蠅が飛ぶ時の音が嫌いで、鳥がさえずる音が好きという事ですか?部屋に蠅が入ってくる事があまり好きでないのであれば、窓を開けないとか、網戸をつけたりすれば良いのです。

盗みをしないという面での正業は、他の人々の所有物を守るために役立つ事です。誰かがあなたに何かを貸した時、それを傷つけないようにする事です。きちんと面倒を見るのです。このように、他者が良い持ち物をもつ事に役立つ事です。

そして、不適切な性行動の代わりに、他者との性行為だけでなく、自分自身の事も話していますが、親切で、優しく、適切なやり方で、決して盛りのついた犬のようではない行動を取るのです。

正しい行動と間違った行動の他の例

感受性の訓練で(これについては喋り方について話した時にすでに触れましたが)この論議を拡張したものを見てみましょう。三つのタイプの行動に関連して、他にも多くの側面がある事が分かります。

殺生の例として、身体的に乱暴なやり方で他者を扱う事を止める事です。他者を叩くと言う事だけでなく、働かせすぎたり、何かをやる時に無理を強いる事も含まれます。言い換えれば、何らかの身体的な害を生む原因となることです。

自分自身に対しても、働きすぎたり、きちんとした食事を取らなかったり、十分な睡眠を取らないなどと、自分自身を身体的に酷使する様な事は止めましょう。普通は他者に対しての自分の行動という面から考えるのですが、実際私たちは頻繁に、非常に自己破壊的な行動をとりますが、その一例としては十分な運動をしないことがあげられます。

そして、盗みについてですが、これは他者の物を取ると言う事だけでなく、例えば、相手に聞かずに他者の所有物を使う事もそうです。相手に聞かずに電話を使って、高額になる通話をしたりと、私たちは許可を得ないでただ自分勝手に振る舞ったりしますが、これは盗みです。映画館とかどこでも良いでしょう、そこに支払わずに忍び込んだりすること。それから、人々が嫌がる事ですが、税金を払わない事もそうです。もちろん「税金は払いたくないよ、何故なら税金は戦争をしたり、武器の購入に使われるのだから」と主張する事もできますが、税金は道路を作ったり、病院を建てたり、学校を作ったりする事にも使用されます。これらの物が欲しいのであれば、もちろん税金を支払わなくてはなりません。

さらに、自分自身のことについても考えられます。自分のお金を取るにたらない物に浪費する事は止めたいですね。それは自分の所有物を誤用すること、自分の富を誤用することですが、例えばギャンブルなどですね。あるいは、実際は余裕があるのに、自分自身のために金を使うことを渋ったりします。適切な食事をしたり、適切な食べ物を得るためのお金はあるのに、けちになって、一番安くて、一番質の悪い食べ物を買うのは、基本的に自分自身からの盗みです。

そして、適切でない性行動についてですが、他者やパートナーに自分を押し付けることだけではありません。自分自身の身体的な健康や、感情面での健康を損なうような性行為をしない事です。簡単な例は、誰かに会って、その人に惹かれたとします。一方では、この人とセックスしたいと思います。しかし、この人は感情面で非常に多くの問題を、そして他にも困難を抱えていて、あなたはこの人と関われば問題になると、難しい事になると気がつきます。そこで、自分の個人的な健康のためにやらない、この人に触らない、関わらないとするのです。きれいな人への欲情だけに駆り立てられないで下さい。

正しい行動(正業)と間違った行動についての質疑応答

さて、ここまでが何が正しい行動(正業)で、何が間違った行動かについてです。何か質問はありますか?

参加者: 私の質問は盗みについてです。著作権と言う厄介なトピックについて論議したいのですが、さまざまな意見があるからです。一方では、著作権があると主張する人々と、著作権などというものはないとする人々がいます。例えば、あるライセンスなしのソフトウェアとか海賊版のビデオをダウンロードする事は盗みなのかどうかと言う事を話し合いたいのです。

アレックス: それは盗みだと思いますね。それが盗みではないと言い切れませんね。もし「支払わずにダウンロードはしないで下さい」と非常にはっきりと書かれていれば、これは明らかに盗みです。

ここでの原理は自分の行動に対してある境界を設定する事についてだと思います。だから、行為の境界と呼ばれているのです。倫理の規律という事に関しては、広範囲のスペクトルがありますね。ですから、スペクトルは – 他者や自分にどのような結果がでるかは関係なしに – あなたがやりたい気がする事をするという事から、完全に何もしないという事までと、仮に不適切な性行動に関して話すのであれば、完璧に僧や尼僧になるなどと幅広いですね。しかし、この両極端の間には、実に多くの可能性があります。ポイントは、自分が一線を越えないとするある境界を設定する事です。

ですから、殺生に関しては「私は狩りや漁や殺人はしない。でも、昆虫に関しては?自分はまだそれと取り組む事ができない」のかも知れません。自分の境界を設定するのです。あるいは、盗みについては「銀行強盗はしない、店から万引きはしない。でも、支払わずにダウンロードする事は?それは避けられない」なのかもしれません。しかし、少なくともある境界を設定しました。それでも、支払わずにダウンロードする事は盗みだと認める必要があります。それは、許可なしに何かを取る事ですから。さらに、実際支払えるのに払わずにダウンロードする事と、支払う金がなくて払わずにそうする事には大きな違いがあります。支払えるのに、ケチったり意地が悪くて支払わない事の方がもっと深刻だと思いますね。それは間違いなく避ける必要があると思います。

さて、一人の著者として、まあ私にはこの巨大なウェブサイトがありますが、これらの事全てを避けるために、私は全てを無償にしています。そうなると、誰かがダウンロードしたり、使用したり、自分のウェブサイトに掲載したりとまあ何であれ、全く問題はありません。他者の利益となれるのであれば、それでよし。そして、寄付に頼るのですが、これが本来の仏教的なやり方です。あまり多くの人がそうはしませんが。

正命と間違った生計手段

それでは、生計手段について − どのようにして生計を建てるか − そしてその際に必要とされる規律についてです。私たちが何をしたいのかというと、害のある業界を避けたり、他者だけではなく自分自身にも害のある方法で生計をたてる事を避ける規律を持つ事です。例として、

  • 武器の製造または取引き

  • 動物を屠殺する、狩り、漁、虫の駆除

  • 酒類や薬物の製造または販売

  • 賭博場/カジノの経営

  • ポルノの出版または流通

他者を害したり、ポルノのように他者の欲望や色情をただ昂らせる原因となる類いの生計の立て方があげられます。

しかし、他者や自分自身に害を与えない普通の種類の生計に携わっていても、正直である事です。不正直な事は避けたいのです。

  • 客や顧客に不当に高く請求する事

  • 横領、つまりビジネス資金を自分のために使用すること

  • ゆすり、他者の金を得るために脅すこと 「大金を渡さないと、ニュースでそっちの悪さを公表する」などです。それは「こちらの要求する金額を渡さないと、子供を殺す」とする誘拐の様なものです。生計を立てるのに良い方法ではありません。

  • 賄賂

  • 他者を搾取する

  • 偽りの広告

  • 金欲しさに食べ物や商品に不純物を混ぜる

このようにして、数多くの不正直な生計の立て方があります。そのような生計の立て方を避けるために、私たちは自己規律を適用したいのです。その代わりに、正直で社会の利益となる様な形で生計を建てたいのです。その最善の例としては、

  • 医療

  • 社会福祉事業

  • 公正な商業

  • 他者の助けとなる製品の製造、販売やサービス

社会が健全に機能するため、他者の福利に寄与するような事をやることです。そして、

  • 他者をだまさない、不当な額を請求しない、その類いの事すべて

  • 適正価格を設定する。もちろん利益を得る必要がありますが、常識の範囲内でやる事です。

  • 従業員に良い給料を支払う。彼らを搾り取る様な、非常に少ない額を支払うなどと搾取しようとする様な事はしない。

さらに、ここで関わる事は極端を避けようとする事です。一方では、完璧な禁欲主義 – 金の余裕があるのに、非常に貧乏な生活をすること – そして他方では、例えば浴室に黄金の設備を置くなどと、全く必要もないような贅沢をしすぎる事です。それは言うまでもなく極端です。しかし、もっとありそうな例としては、私の知っている人々の中には、非常に大金持ちで、もうすでにたくさんの服やドレスを持っているのに、出かけては一番高い洋服を買う人がいます。 特に女性がそうしがちですが、ありすぎるほどあっても、退屈しているので、買い物をすればどうにかして幸せになれると考え、また次の何千ユーロもするドレスを買うのですが、それは決して彼女に幸せをもたらす事はありません。ですから、このタイプの贅沢をしすぎる事もまた不適切な人生の過ごし方です。

質疑応答によく出てくる正命についてのポイントがあります。それについて話そうと思います。ある時、私はオーストラリアでチベット人の教師の翻訳をしていましたが、彼が正命について触れました。オーストラリアやニュージーランドにはとてつもない数の羊がいますが、聴衆の一人が「私の住む町には、羊を飼育することしか仕事がありません。羊はその後羊毛に使用されたり、肉として使用されます」「私はどうすれば良いのでしょうか?他の職を探すために、街に移ったり、他の場所に移ったりとすることはできません。つまり、私が住んでいるところは、自分の家族が住んでいるところにはこれしか仕事はないのです」と質問しました。チベット人のラマは「そうですね、要点は自分の仕事において正直であること、他者をだまさないことです。そして、羊を虐待しないで親切に扱うことですが、十分にえさをやり、よく世話するなどです」と答えました。ですから、羊を飼育するということに関してでも、生計を立てることで主に強調されるのは親切で、正直であることだと言いました。しかし、自分の町の唯一の産業が武器製造となると、これは明らかに難しいことです。正当な価格で武器を売ることだけでは十分ではないと思います。

さて、これらが八正道に関わる倫理的な規律の訓練における三つの要因、三つの側面です。私たちは自らが倫理的規律に関わり、破壊的な言葉遣いや、破壊的な行動、破壊的な生計の立て方を避けて、建設的なコミュニケーションの取り方、建設的な行動、建設的な生計の立て方に携わる様な規律をもつ訓練をしたいのです。そして、さらに他者の利益となるように、話し、行動し、生計を立てるような規律を訓練したいのです。そして、これは自分が社会や友人たちとどのようにして関わるのか、自宅では家族とどのようにして関わるのか、そして自分自身とどうつきあうのかに適用されます。

倫理的な自己規律に関する質疑応答

さて、集中について話す前に、倫理的な自己規律について何か質問はありますか?

参加者: バルト海でのある状況についてです。ある大型カニが現れ、そこに住むすべての生き物を殺しています。いくつかの会社がビジネスのために、これらのカニを捕っています。これらのカニは他のもの全てを殺していますが、これらのカニを殺すことは倫理的でしょうか?そうではないのでしょうか?

アレックス: それは難しい件ですね。これはこれらの大型カニだけに限らず – SFのホラー映画のイメージが浮かびますが – イナゴがやってきて畑中のすべての作物を食いつぶしたり、ナンキン虫が家ではびこるなどとありますね。これは基本的に害虫を退治することです。

多くが動機と関わってくると思います。よく使われる伝統的な例があります。仏陀はその前世で船頭をしていました。船には乗っている人みんなを殺害しようとしている者がいましたが、仏陀はこの大量殺人を平和的に解決する方法がないことが分かりました。それを防止する唯一の方法としては、この大量殺人を犯そうとしている者を彼自身が殺す以外にありません。そこで、仏陀はこの人を殺しましたが、その動機は怒りや恐れではなく慈悲心で、この者が船に乗っているみんなを殺すという様な非常にネガティブなカルマ(業)を蓄積して、その来世でひどく苦しむような事にはならないようにとの動機からその人を殺しました。しかし、仏陀はそれは殺人であり、動機が何であれ破壊的なことであるという事実を認め、受容しました。そして、仏陀は「多くの他者を救うために、私自身が業(カルマ)の報いを喜んで受けいれよう」と言いました。後生(来世)における因果応報について考えないとしても、誰かを撃てば、その相手が大量殺人者であっても、警察に行き裁判を受けなくてはなりません、その結果として多くの困難を経験しなくてはいけません。しかし、仏陀は「多くの他者の命を救うためにその報いを受け入れよう」と言いました。

ですから、捕食動物を殺す必要があれば – 農作物を守るため、他の魚を守るためなどと – 怒りのせいではなく、恐れのせいでもなく「これらのカニを売って大もうけしたい」ためでもなく(動機が)慈悲のためであれば、怒りのせいであるよりは(ネガティブな)報いははるかに小さいでしょう。しかし、それはネガティブだと認め、それによるどのような応報をも受容しなくてはなりません。

参加者: 商品の価格が過剰につり上げられる事があると言いましたが、どういう意味ですか?ゼロ以上の利益があると、その商品の価格は過剰請求ですか?

アレックス: いいえ、利益が適当であれば過剰請求ではありません。しかし、中国で三セントで製品を作り、百ユーロで売るとなると話しは違います。それは、過剰な利益ですよね。しかし、人々はそれをやっているのです。三セントは安すぎるかもしれませんが、バングラデシュでデザイナー・ブランドのシャツを作るのにコストは一体いくらなのでしょうか?労働者に実際どれだけ支払っているのでしょうか?そして、高級な店でいくらで売るのでしょうか?

人は生活しなくてはいけませんし、他にも家族を養うなどと何らかの利益をだす必要があります。ある数字やあるパーセンテージが適切なのかどうかを決める事は難しいのですが、できることだと思います。基本的な常識を使えば、何が高すぎて、何が不当なのかの一般的なアイデアを得る事ができます。

集中力(禅定)を訓練する

それでは、集中力について話しましょう。ここに、八正道の次の三項目が入ります。

  • 正精進 (yan-dag-pa’i rtsol-ba)

  • 正念 (yan-dag-pa’i dran-pa)

  • 正定 (yan-dag-pa’i ting-nge-’dzin)

正精進とは破壊的な思いを捨てて、集中するのに良い心の状態を発展させる事です。

マインドフルネス(dran-pa憶念)は、心の糊のように、何かを保持し手放さない事で、何かを忘れる事を防止します。ですから、正念は、

  • 自分の身体、フィーリング(受)、心(マインド)や心的要素の実際の在り方を忘れない事で、それらに阻害されないこと

  • そして、受けた戒律や誓約などとさまざまな倫理的なガイドラインを忘れない事でもあります

  • 焦点を当てる対象を手放したり、忘れたりしない事

ですから、言うまでもなく、瞑想中は自分が焦点を当てている対象を失わないようにマインドフルになる必要があります。また、誰かと会話していたり、仕事中は、話している相手の言っている事に注意を当て続け、注意散漫になって何か他に気がそれるというようなことにならないよう、このマインドフルネス(憶念)を保つ事です。

そして、集中力そのものは集中する対象に意識(こころ)を置くことです。ですから、誰かと会話をしていて、話しを聴いている時に、集中するとは相手が話している事に、相手の様子に、相手の行動に注目する事で、マインドフルネスは自分がぼんやりしたり、気がそれたりなどとならないようにあなたの意識をそこに保持する糊です。

間違った努力

オーケー、それでは、精進について始めましょう。間違った努力とは、自分の気(エネルギー)が害のある、破壊的な思いに操作される事です。そうですよね?これらのネガティブな思いや破壊的な思いは私たちを完全に惑わすものです。集中できなくなります。

欲張りな思い

これらの最初のものが欲張りな思いと呼ばれるものです。それは他者が達成した事や、彼らの快楽や、物質的な所有物について嫉妬心を持つ事で「どうすれば私にも得れるのか」と考えたりします。ですから、極端な嫉妬、欲望、そして執着です。自分が持っていないものを他人が持っている事に我慢ができないのです – それは他人が成功することや、自分がとても孤独な時に誰かにパートナーがいたり、自分には車がない時に誰かが新車を持っていたり、まあなんであれ – 常にその事を考えていて、どうにかしようと企んでいます。非常に心がかき乱されている状態です。集中力を失いますよね。

完璧になろうとする思いもこのカテゴリーに入ると思います。サブ・カテゴリーです。「自分を出し抜くにはどうすれば良いのだろう?自分のやった事には満足がいかない、だからもっともっと努力して、コントロールしなくては!」と。ですから、実のところ、これは自分自身への嫉妬です。

悪意のある思い

そして、第二はどうやって誰かを傷つけようかと悪意を持った思いです。それは「この人が私が嫌いな事を言ったりやったりすれば、やっつけてやる」とか「この人に次に会う時には、これやあれを言おう」と企む事です。そして、私たちは相手が何かひどい事を自分に言った時に、何かを言い返せなかった事が悔やしくて、それが頭にこびりついて、いつもその事ばかり考えてしまいます。

つまり、数多くの自己破壊的な思いがあるのです – 自分の人生でやってみようとする事を本当にだめにするような事をしようと考えたりします。自分に害を及ぼすであろうということに気がつかないのかもしれませんが、そのように考えています。「それを買う金銭的なゆとりはないけど、本当に欲しい。だから、それを買うためにさらに借金をする」と、それは自己破壊的です。負債がさらに増えるのですから、無意識のうちに、自分にさらにもっと問題を作り出す事を企み、計画しているのです。

歪んだ敵対意識

そして、三番目が歪んだ敵対意識(log-lta)と呼ばれるものです。誰かが、自己改善しようとしたり、他者を手助けしようと一生懸命な時「あいつらは馬鹿だ。彼らのやっている事は役に立たない、それは私が好きな事ではないのだから」と考えます。誰か別の人が何かを選ぶと「ああ、そんな事するなんて本当に馬鹿だ」と考えます。

スポーツが好きではない人々の中には、スポーツの好きな人やサッカーの試合をテレビで見たり、チームの試合を見に行ったりすると「あいつらは本当に馬鹿だ」と考える人もいます。スポーツを好きになる事は無害なのに、歪んだ考え方で、馬鹿らしい、時間の無駄だとなるのです。それも、非常に敵対心を持った心の状態です。

あるいは、誰かが他の人を助けようとすると – 乞食に少しばかりのお金をあげようとしているとしましょう – あなたは「そんな事をするなんて本当に馬鹿だ。馬鹿げている」などと考える。このような事です。その乞食が実際はそれほど貧乏ではなく職業としてやっているとしても、それでも乞食になるなんて、それはひどいライフスタイルですよね。金を得るために、歩道に横たわったり、身体をふるわせたり、何であれ決して楽しい事ではありません。

他のみんながいかに馬鹿げているかとか、やっている事がいかに理性を欠いているかを常に考えていると、まず集中する事はできません。ですから、できれば取り除きたい考え方です。言うまでもなく、そうするには相当の規律が要ります。しかし、行動や言動において規律を持てるようになれば、このような破壊的な考え方をし始めた時にはそれを止める事ができて、心の旅に出ないようにくい止める心の規律が持てる強さを私たちに与えてくれます。

わかりますか?

正精進

それでは、正精進とは何でしょうか?正精進とは自分のエネルギー(気)を有害で破壊的な考え方から離して、有益な資質を発展させる方へ向ける事です。この事に関して、四つの精進(四正勤 私たちが達成したいと一生懸命努力すること)について述べましょう。

四正勤

(1) 第一に、まだ発展していないネガティブな資質が生じる事を防止する。

では、まだ持ってはいないがそれが生じる事を避けたいとするネガティブな資質とは何でしょうか?もし、中毒症になりやすい人であれば、あるクラブに加盟する事を避けた方が良いかもしれません。ここウクライナにもあるかは分かりませんが、例えばビデオクラブがあります。最近だと、映画関係のサービスとして、インターネットからダウンロードできます。ここにもありますか?もし、これらの一つに加入すると、毎日何かをダウンロードして、毎日見なくてはなりません。これは自分にとって非常に有害なものである事を分かるので、加入する事を避ける努力をするのです。そうして、自分が虜になってしまうものに入らないようにするのです。そのようなものを避ければ、より高まった集中力を得るでしょう。

最近はiPodにハマってしまい、音楽なしではどこにもいけない人々もいます。では、音楽を聴きながら、一体どうやって同時に何かに集中できるでしょうか?一点に焦点をあてる事はできません。

参加者: でも、音楽には集中できます。

アレックス: 音楽に集中する事はできます、でもそれは他の人と会話したり、自分の仕事をするには役立ちません。つまり、気が散るのです。ほとんどの人が沈黙を恐れ、何かを考える事を恐れるので、常に音楽を必要とします。ですから、まだ癖になっていないのであれば、私たちはこのタイプのネガティブな資質や害のある習慣を避ける努力をしたいのです。

(2) それから、第二はすでに生じてしまったネガティブな資質を取り除く努力をする事です。そのようなものにすでに中毒しているのであれば、せめて限定して下さい。常時になることは止めて下さい。

(3) そして、新たなポジティブな資質を養成するのです。新たなポジティブな資質を養う努力をして下さい。

(4) そして、すでにあるポジティブな資質を維持して高める努力をします。

これらを見てみて、実用的な応用を見いだそうとすると面白いですよ。例をあげてみますが、自分の体験からの簡単な例ですが、私には実に厄介な習慣がありました。私にはこの膨大なウェブサイトがあるのですが、毎日非常に多くの翻訳や編集済みのバージョンなどのファイルが送られてきます。毎日、多くのファイルが届くのですが – 十、二十、それ以上です。このウェブサイトには約百十人の人々が関わっているので、毎日多くのファイルがやってくるのです。そして、私はすべてを一つのフォルダーにダウンロードしていました – それが私の習慣でした – 私やアシスタントが探せるように適切なフォルダーにファイルする代わりにです。それが私の悪い習慣でした – 非常に非効率的で、(何も探せなく)時間を浪費するので集中する事を妨げました。それでは、何がポジティブな資質でしょうか?それは何かが来ると同時に、この大きなダウンロードフォルダーに行くのではなく、すぐに正しいフォルダーに行くようなシステムを設定する事です。そして、ファイルが到着すると同時に、いつも適切な場所に行くようにする事です – 怠けて一カ所にダウンロードするのではなく – そうすることですべてがそれよりももっと効率よくなっています。

ですから、ここにネガティブな資質があり、全く生産的ではない習慣ですが、よりポジティブなものもあります。私が習慣になっていたこのネガティブな資質を避ける努力をして、それが持続するのを避けるために、ファイル・システムを構築して、管理する努力をする。ここで語っている事は、非常に簡単なレベルで私たちが実践できることです。オーケー。

集中するために五つの障害を乗り越える

正精進は集中するために五つの障害を乗り越えるための努力をする事でもあります。それではこれらの障害とは何でしょうか?

五感の対象への欲望を追求する意図

最初に、五感の欲望の対象物が何であれ追求する意図です。それは何を意味するのでしょうか? その意味は、私が座って何かに集中しようとしています – 私の仕事であれ(あなたの仕事の)何であれ – 何が集中する事を妨げるのでしょうか?何がその集中を邪魔するのでしょう?それは「ああ、映画が観たい」とか「ああ、電子メールをチェックしたい」と考える事でしょう。ここでは、感覚的な快楽と言う面では「ああ、何か食べたい」「何か音楽を聴きたいな」「友人に電話したい」などですね。ですから、それを追求しないように、私の意図はそれをする事ではないようにして、集中し続ける努力が必要なのです。

意地悪な思い

第二は意地悪な思い、誰かをやっつけようとする事です。悪意を持つ思いと似ています。意地の悪い思いをいつも持っていると – 「ああ、この人は私を傷つける。彼らが嫌いだ。彼らをやっつけるに何ができるのだろうか?」 – それは集中を妨げる大きな障害です。

と言うことで、最初の項目は欲望についてでした。

  • 「私はこの快楽やあの快楽が欲しい」

  • 「休みに行けるのは一体何時なのだろう」

  • 「この仕事はいつ終わるの?」

このタイプの思いです。

そして、この二番目の項目は他者や自分自身に対して、嫌な、害のあるありとあらゆる思いを持つ事です。ですから、これらの事を避けるために正精進する、これらが生じると避ける正精進をする必要があるのです。

かすんだ心と眠気

第三はかすんだ心と眠気です。かすんだ心とは、私たちの心は霧の中で、ぼんやりして、はっきりと考える事ができないことです。そして、眠気ですが、ただ眠りたいだけです。それと戦わなくてはなりません。コーヒーを飲んだり、起き上がり窓を開けるなり何なりと – 何をするにせよ、それに負けないように努力します。しかし、あまりにも難しすぎる時は、境界を、限界を設定します。「昼寝をする」と – 言うまでもなく、オフィスであればそれはできませんが、自宅で仕事しているのであれば – 「昼寝をする、または二十分間休む」「十分のコーヒー・ブレークを取る」と限界を設定して、そして仕事に戻ります。

この最初のものは、五感の対象を追求する意図には – 何かに取り組んでいる時に、インターネットをサーフして、YouTubeとか、ニュース・ジャンキーであれば再度ニュースをみたいとかの何かを見たくなる強い欲求があります。集中には邪魔になるものです。Facebookやツイッターのフィードをチェックしたいなども一緒です。

浮ついた心と後悔

第四は浮ついた心と後悔です。浮ついた心は、Facebook のページや何か他のものに飛んでいく事です。そして、後悔の念 – ここでは二つが一つのカテゴリーにまとめられています – つまり「ああ、これをやったこと、あれを言った事を本当に後悔する」と意識(こころ)はこれらの罪悪感/自責の念に飛んでいきます。これらは非常に気が散る事で集中する事を阻みます。

優柔不断と疑惑

そして、集中する事を妨げるもので、私たちが乗り越えようと努力する必要のある最後の項目は優柔不断と疑惑です。私たちは「何をすれば良いのだろうか?」「ランチは何にするべきか?これにすべきか?あれにすべきか?」と決定できないのです。膨大な時間を無駄にします。常に疑惑や優柔不断に満たされていると、集中して仕事をする事ができません。ですから、それを解決するよう努力するのです。

結論

さて、これが集中力を発展させるために用いる八正道の最初の要素です。それは集中力を養成するためには良くない気を散らすような考え方/思いや、感情の状態を取り除こうと努力し、良き資質を発展させて、非生産的な習慣を取り除こうと努力することです。一般的に、自分の人生で何かを達成したいのであれば、努力が要ります。事物は絶対無から生じる事はありませんし、それが簡単だと誰も言ってはいません。しかし、前にも述べたように、私たちがどのように行動し、どのように喋り、そして生計を立てると言う点からは、他者とどのように関わるのかに関しての倫理的な規律と取り組んで、少しばかりの強さを持てれば、それがより集中するための精神的(メンタル)な状態や、感情的な状態を作り出せるように努力しようとする強さを与えます。

これで午前のセッションは終了です。ランチの後に続けましょう。ありがとうございました。