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日々の生活における三学と八正道

アレクサンダー・ベルゼン
2013年6月 ウクライナ、キエフにて
未編集の文字起こし

セッション1 コンテクスト(文脈)としての仏教科学と哲学、そして正語

親切なご紹介どうもありがとうございます。ここキエフにもう一度戻れて嬉しい限りです。

はじめに

仏教科学、仏教哲学、そして宗教としての仏教

ダライ・ラマ法王が一般の聴衆に話す時に、彼はとても役立つ区分を設けます。それは仏教科学、仏教哲学、そして宗教としての仏教の三分野です。

私たちが仏教科学について話す時、それは感情の科学のことで、心(マインド)がどう作用するのかについて、ダライ・ラマ法王が精神的(メンタル)かつ感情の衛生と呼ぶものについてです。全てのさまざまな感情の状態とそれらがどう作用するのか、どう相互に共同して作用するのかなどと仏教は非常に詳細にわたる分析をしています。

そしてさらには、

  • 私たちの知覚がどう作用するかに関する認知/認識科学、意識の本質(それは何なのか?)、集中力を鍛えるためのさまざまな種類の訓練

  • 宇宙論の詳細な分析 – 宇宙の始まりと続きと終わりについて

  • 物質とエネルギー、素粒子などの詳細な分析

  • 医学と身体のエネルギー(気)の作用

これら全てが仏教科学の領域内に入ります。仏教科学は誰でも学べて、誰にも利益があり有益なものなので、ダライ・ラマ法王は科学者たちと何度もそれに関しての議論をしています。

次に、第二の分野の仏教哲学ですが、それは下記の事柄などを含みます。

  • 倫理 必ずしも宗教に関わらない基本的な人間の価値 誰もが親切心、寛大さなどの基本的な人間の持つ価値から利益(りやく)を得ます。

  • 論理と形而上学の極めて詳細な説明 理論、普遍性、特異性、性質、特徴、それらがどう相互作用するのか、それらをどのようにして知るのかなど

  • 因果論の詳細な分析 原因と結果、現実の基本的な理解、投影がどのようにして現実を歪めるのかの理解

ですから、仏教哲学の領域全体は必ずしも仏教徒にだけ限定されるのではなく、誰でも利益を受けることができます。

そして第三の区分は、宗教としての仏教です。これは実際の仏教徒の修行のことで、業(カルマ)や輪廻転生、儀式の実践(例えば、マントラの復唱、観想など)のことです。これが仏道/菩提道に従う人々のために特別なものである宗教としての仏教の領域です。

これらの三分野 – 仏教科学、哲学、そして宗教としての仏教 – の観点から、私たちは三つの訓練(三学仏教)と言う今回のトピックがどのようにしてそのコンテクスト(文脈)に適合するかを検討できます。

三つの訓練(三学)

それでは、これらの三学とは何でしょうか?

第一が倫理的な自己規律(tshul-khrims 持戒)についてです。この意味することは破壊的な行動を控えること − 実際に破壊的な(基本的には自己破壊的な)行いを止めるための規律のことで − そして建設的な行いに携わることと、他者を助けるための規律を持つことです。これが第一の訓練となる規律ですが、それは倫理的な自己規律のことです。他者をしつけようとすることではありません。犬を訓練するようなものではありません。

第二の訓練は集中力(ting-nge-’dzin 禅定)についてです。これは私たちの心を集中させることであらゆる類いの関係のない思考に心が絶えず散乱することを止めることです。私たちの心(マインド)は鈍くはなく、鋭く焦点が定まっています。集中力に必要なものは感情の安定で、怒りや、執着や、嫉妬やその類いのものは何であれ、それに動揺しないことです。ですから精神的(メンタル)な安定と感情の安定が必要です。

そして、第三の訓練は正しく判別する認識(shes-rab 智慧)についてですが、その意味することを理解する必要があります。専門用語のように聞こえますよね。それは何が受け入れられ取り入れられることで、何が拒否すべきことなのかを判別する(discriminate)または区別する(differentiate)能力のことです。例えば、買い物に出かけ、あなたが買おうと思っている野菜のコーナーがあります。そこで、判別します。「これはあまり見た目が良くないな。あれはとても見た目がいい」と、何を受け入れ、何を拒否するのかを区別します。

しかし、判別する認識は野菜を買うよりも、より一層深遠なレベルのものとなれます。私たちはこの判別する認識を持っています。

  • 行動に関しては – 何が適切な行動か、何が不適切な行動か – 状況や一緒にいる人たちなどに依存します。

  • より深遠なレベルで、現実と自分の幻想の投影を判別する。

ですから、三つの訓練(三学)は倫理的な自己規律(戒)、集中力(定)、そして判別する認識(慧)です。ここで、これらの三項目を単に仏教科学と哲学の観点のみから提示できますが、そうすれば誰にでも適用でき適切なものとなれます。あるいはまた両者に宗教としての仏教の観点も加えて提示することもできます。

それは私が軽いダルマ/ダルマ-Liteと「本物/本来の」ダルマまたは「真正」仏法と呼ぶものに区分けする分類法に対応します。(コカコーラがコカコーラ・ライトと本来のコカコーラに分かれるように)ダルマ・ライトは単に今生を改善するために仏教科学と哲学から諸方法を応用することで「本物の」ダルマ(仏法)は仏教徒の三つの目標のために – より良き輪廻転生、輪廻からの解脱、そして最終的な悟りを得るために – これらの三つの修行(三学)を取り入れることです。

ダルマ・ライトについて語る時は、本物/本来のダルマ(「真正」仏法)の準備、ある種の前行という面について話しています。仏教徒であれば「私は普段の生活を改善するために努力する必要がある」が、それはその後の更なるスピリチュアルな(精神面での)ゴールのためなのだと認識する必要があります。しかし、私たちが仏教科学と哲学という観点だけを考慮すれば、それは実に誰ものためになれます。ですから、このトピックに関して、私たちの誰もが人生を向上させるために、どのようにしてこれらの三つの訓練を活用するのかというレベルで、一般的な基本的なガイドラインと助言について話そうと思っています。それを仏道/菩提道の前行と考えるのか、誰にとってもためになる一般論として考えるのかどちらでもかまいません。

四聖諦

仏教哲学(まあこう呼ぶことにしましょう)の領域で、仏教の考え方について一般的に紹介しましょう。普通、四聖諦と呼ばれていますが、人生における事実という面から考えることもできます。

  1. 私たち全員が直面する苦しみと問題を見ること これが、第一の事実です。だれもが問題に直面します。人生は苦しいものです。(苦諦)

  2. 第二の事実がこれらの問題は原因から生じるということです。(集諦)

  3. 第三の事実が問題を取り除くこと、滅止させることはあり得るということです。私たちは常時問題を持つように運命付けられていて、ただ黙って受け入れなくてはならないというではありません。(滅諦)

  4. そして、第四の事実が問題を取り除くには、問題の原因を取り除くことだということです。これは普通「(仏/菩提)道」と呼ばれるもので理解の仕方、行動のとり方、言葉の使い方などを示しています。(道諦)

ですから、私たちの行動のとり方、言葉の使い方、コミュニケーションの方法(意思疎通の図り方)や考え方が間違っていて自分の問題の原因となっているのなら、それを変えなくてはいけません。これらの三つの訓練(三学)は私たちの問題の原因を取り除くために必要とされることの一部です。ですから、何故私たちがそれら三学を訓練したいのかを知る事が、その理解に役立ちます。人生で問題を抱えていると分かることは、

  • 私がどのようにして行動するかの倫理的規律に問題があるのか?

  • 集中力に問題があるのか? ただあちこちに散乱するばかりで、感情的に混乱しているのか?

  • 特に、現実と自分の馬鹿な投影を区別することに問題があるのか?

これは今生/現世の普段の生活に適用できます。あるいは、来生/来世で出くわすかも知れない問題について、輪廻転生一般について、他者を助ける時の限界について(というように、更なるスピリチュアルな目標があります)。初歩のレベルでは、ただ普段の生活の面でのこれらの三つの訓練を考えた方がいいと思います。これらの三学がどのようにして私たちに役立つのか?問題を生み出すような私たちの行為は何なのか?そして、これを避けるためには何ができるのか?どのように変われるのか?

苦の原因(因)

一般的に、仏教の観点からは、仏教哲学では、苦の原因(因)は無明(unawareness)だと言われています。私たちは二つのことを知らない、または二つのことに関して混乱しています。

最初の無明は基本的に原因と結果について、私たちの行いに関する原因と結果についてです。ここで言っているのは、私たちが心を乱す感情 – 私たちは怒りや、貪欲や、執着/愛着や、おごりや、嫉妬などの影響を受けています – を持てば破壊的に行動するということです。怒っているから、人に怒鳴ったり、人を傷つけるようなことをしたり、人にしがみついたりしますが、これが問題を生み出します。そして、この全てが、結果として、不幸をもたらすのですよね。問題は不幸です。その不幸はどこから来るのか?それはこれらの心を乱す感情のために、言葉の上で(口)、行動の上で(身)、全く馬鹿な振る舞いをするなどと、破壊的な行為をすることから生じます。そうですよね。基本的には自己破壊的なものです。

心を乱す感情(煩悩)の定義を見てみると非常に役に立ちます。煩悩は、それが生起すると私たちは心の平安をなくし、自制心を失う心の状態のことです。怒りのせいで誰かに怒鳴りますが、それはその人を動揺させるかもしれないし、そうではないかもしれません(その人はこちらの言っていることを聞いてないのかもしれないし、ただ笑って馬鹿なやつだと思うのかもしれません)。しかし、自分には心の平安などないのです、ただ感情的に動揺し、気も乱れますが、それは怒鳴るのを止めてもまだ続きます。不愉快な体験です。自制心を失い、後で後悔するようなことを言ったりします。

ですから、私たちがそのように行動する理由は、

  • 原因と結果を理解していない(無知)。このような類いの心を乱す感情の影響下で行動をとれば、自分に不幸をもたらします。

  • 原因と結果について混乱している、または逆の誤った見方で理解している(無明)。私たちは「この人を怒鳴れば、気持ちがよくなる」と考えたりしますが、決してそうではありません。あるいは、執着のために、誰かに「何故、もっと頻繁に電話をしないのだ。何故もっと頻繁に会いにきてくれないのだ」と怒鳴るでしょう。もちろん、それはその人をもっと遠ざけるだけですね。自分が欲しいことは何も達成されません。私たちは原因と結果について混乱しているのです。

無知(無明)の第二の種類は、あるいは単に無知なことの次の項目は、私たちが現実について混乱していること(無明)です。現実についての混乱(誤った見方)から、私たちは心を乱す態度を得ます。一例としてあげられるのは、自己没頭です。私たちはいつも私、私、私と自分自身のことと、自分がどうあるべきかについて考えています。非常に批判じみたりもします。そうなると、例えば「私は完璧でなければならない」などの症候群を得て、完璧主義者になります。私たちが建設的な類いのやり方で行動したとしても、全てが完璧で全てがきちんとするようにと、それは強迫的(compulsive)ですよね。一時的には幸福かもしれませんが、それは瞬く間に不幸感と不満足感へと変化します。私たちは「でもまだ十分ではない」と考え、さらにがんばらなくてはなどと、より一層と自分に無理を強いるのです。

簡単な例として、家の掃除に関して完璧主義者の人があげられます。彼らは全てをどうにかして制御できて、全てを整理整頓して清潔に保てるとの誤った考えの下にいます。それは不可能ですよね。全てを清潔にして、完璧にしようとしますね、そして子供たちが帰ってきて散らかします。そうなると、不満足で、また掃除をしなくてはいけません。強迫的ですよね。そして、最終的に「ああ、これで整理整頓された」と少しばかりの幸福感を得る度に、それもすぐに消えてしまいますよね。必ず見落とした所があるのですから。

そして、これらの心の状態を繰り返すことで、それが心を乱す感情であったり心を乱す態度であったりとどちらにしても、この類いの強迫衝動的な行動を繰り返すことで、私たちが行苦(存在の苦/遍在する苦)と呼ぶものを得るのです。行苦は私たちがどのようにしてこのような習癖を蓄積してきたのか、そしてそうすることで自分の問題を永続させてしまうのかについて述べています。何度も、何度も繰り返されるのですが、いつも掃除するとか、いつも短気を起こすなどの習癖を作りあげてしまったからなのです。

そして、これは私たちの身体(からだ)にも影響します。いつも怒ってばかりいると、血圧が上がりますし、心配ばかりしていると潰瘍になるなどです。全てが整理整頓され清潔であるべきとの完璧主義であれば、いつも緊張していますよね。あなたは「ホコリが入ってくるかもしれないから見張らなくては」と決してリラックスすることがありません。

ですから、私たちに必要なのはこれらの三つの訓練(三学)です:

  • この無明を取り除くために判別する認識が必要です。例えば、自分の家の清潔さや整理整頓を制御するのは不可能です。ありえません。ですから、どうにかすれば全てが完璧で制御できるとするこの幻想と「私がそれを制御できる者なのだ」を区別して、判別する必要があるのです。これは不条理で現実にそぐわないと知る必要があるのです。もちろん、あなたは自分の家を清潔にしようと努力はしても「二度と汚れないようにしなくては」などと思わないことです。もちろん、汚れますよ。もう少しリラックスするのです。ですから、ここでの判別する認識は何が現実で、つまり「もちろん、汚れるのだ、誰もそれを制御できない」ことと、何が幻想かを見分けることです。経典では、木を切り倒す例をあげ、判別する認識は私たちの無明(誤った見方)を切り裂く鋭利な斧にたとえられています。

  • しかし、その木をこの斧で切り倒すには、いつも同じところに命中させる必要がありますが、これが集中力です。私たちの心がさまよい、気が散れば判別する認識を失います。あるいは、感情的に動揺していれば判別する認識を失います。ですから、いつも同じところを斧で打つには集中力が必要なのです。

  • また、その斧を使うには体力/強さが必要です。体力がなければ、斧を持ち上げることさえできません。そして、強さは自己規律、倫理的な自己規律から生まれます。

ということで、こうして自分の問題を乗り越えるために何ができるのかという面から、これらの三つの訓練を(三学)を理解できるのです。前に述べたように、これを仏教科学と哲学の種類のものとして普段の生活に応用できます。

ここで、先に進む前にこれまでを消化する時間を取りましょう:

  • 自分の行いと現実の面に関して、原因と結果(因果応報)を明瞭に理解するために、私たちは現実と幻想間を判別する認識を使いたいのです。何故なら、このことで心が混乱すれば、あるいはこれが自分の諸問題の原因だと気づかなければ/認識できなければ、自分の行いと態度によって、不幸か、決して満足感を得ることのない類いの幸福を生み出すからです。例としては、一方では、私はいつも短気で誰かに「何故、電話しないのだ?何故、もっと頻繁に訪ねてこないのだ?」とせがみます。他方では、完璧主義者になる例です。この誤った見方(無明)の下ではただ問題を作り出すだけだと理解する判別する認識が必要です。

  • しかし、それを理解して応用するには、このことに焦点を当て続けなければならないということで、集中力が必要になります。

  • 集中するには、心が散乱した時にはよび戻すための規律が必要です。

  • そして、これらの全ての訓練を適用して、基本的には自分の問題を取り除いて幸せになるために、人生の質を向上させるために、これらの面で自分自身を発展させるのです。

さて、しばらくこれを消化しましょう。

このことから私たちが得るべき鍵となる洞察(insight)は、人生での不幸と不満足は基本的には無明(心の混乱/誤った見方)から生起するということだと思います。自分の全ての問題を他者や社会的な、経済的なものなどの状況のせいにするよりも、より深遠なレベルに焦点を当てるのです。経済的な問題や、財政上の問題や、家族との難しい状況や病気などと多くあるでしょうが、それは一面です。しかし、ここではより深遠なレベルについて話しているのであり、それはそのような状況と取り組む自分の心の状態のことです。多くの困難な状況があるでしょうが、ここでは一般的に不幸と感じることと決して長続きしない、決して満足することのない種類の幸福について話しています。私たちはこの類いの幸福よりも、もっと素晴らしい心の平安を得て長続きするような種類の幸福が欲しいのです。

困難な状況に直面する時に憂鬱で全く惨めになったりします。しかし、何が起きているのか、何が関わっているのか、それと取り組む方法は何かをもっとはっきりと分かると、自分をかわいそうだと思う代わりにもっと穏やかな心で向き合えます。子供がいれば、その子が夜外出すると「無事に家に帰れるかしらん」などととても心配になったりしますね。これもまた「私は自分の子供の安全をどうにかしてコントロールできる」という態度で、もちろん幻想です。そして、子供が帰ってくると幸せな気分になりほっとするのですが、次回また子供が外出すると、また心配しだすのです。ですから、この種の楽の感じ方は長続きしませんね。そして、いつも心配ばかりしています。全てのことを心配するような習癖を作りあげてしまったのですが、それは健康にも影響しますし、しかも非常に不快な状態です。

ですから、本当の鍵は、これら全ての原因は自分の誤った見方(無明)だと理解することです。自分の行動の取り方で幸せになれるとか、現実に対する態度として、現実をコントロールできるという態度は正しいと思いがちですが、そうではないのです。ですから「これは馬鹿げている」と、切り裂かなければなりません。そして、それに従い、それに焦点を当て続ける、いつも焦点を当て続ける強さを持つのです。

これが三学の教えについての一般論です。

質疑応答

三学とは何か、どのようにして三学の訓練をするのかについて話す前に、何か質問はありますか?

参加者: この訓練を取り入れる時の順序について話して下さい。順序はあるのですか?それとも、同時にやれるものなのですか?

アレックス: これが提示される際にいくつかの順序があります。後で話すつもりです。まずは、基本の訓練の始めは規律(持戒)です、その後にそれを適用します。行動の取り方(身)と喋り方(口)を規制できれば、それが集中力を規制する強さを与えます。そして、集中力(禅定)を扱えるようになると、判別する認識(智慧)を持つようになれられます。

しかし、別の提示もあります。それは、判別する認識を持つことができれば、行動や喋り方を適切に行えるとするものです。それに続いて規律を得て、それが集中力につながる。そして、集中力で判別する認識に戻るのです。

しかし、これらの三学について十分に訓練されれば、三つをあわせて、同時に適用します。

参加者: 私の質問は完璧主義と効率性の違いについてです。これらを識別する(distinguish)とても薄い線、とても微細な線があります。例えば、あなたが管理者で自分のために働く人々がいます。完璧主義者でなければ、彼らが何をしているのか気にもしないので、効率が悪くなるかもしれません。これとどう向き合えばいいのですか?効率の良さと完璧主義のバランスをどうやって見つけるのですか?

アレックス: 効率的でいるということと、完璧主義になろうとする違いは自己没頭と関連していると思います。完璧主義は「私は完璧であらねばならぬ」というアイデアで、その焦点は「私」で「私は全てをコントローできるようにならなくてはいけない、そうすれば完璧になる」なのです。そして、全ての他の原因や背景にあるものや状況と独立して、自分が全てをコントロールできるという幻想に基づいています。そして、いつも緊張しています。これは心を乱す態度で、定義に戻ると、完璧主義者であれば心の平安を得れません、何故ならあなたは何かがおかしくなると思い「正すために何かしなくては」といつも緊張しているのですから。そしてうまくいかないと「私のせいだ」となり、完璧主義者は自己制御を失いがちで、自分の部下が遅刻したり何かを正しくやっていないと怒鳴り散らすのです。

効率がいいということは「私、この私は完璧であらねば」の自己本位の幻覚(エゴ・トリップ)に関係ありません。効率の良さは、何が機能して何が機能しないのかを知ることで、ただ最善のやり方にでるだけです。実際に効率よくするには、現実的になる必要があります。そして、現実的になるということは、部下はたまには病気になる、機械はたまには故障することをあなたが知ることで「ああ、私はこれをコントロールしなくてはいけない」などと緊張しないことです。起きていることが何であれ、それと取り組むのです、この人が病気なら、代わりの人をおくのです。機械が故障すれば「OK、今日は普段のようには生産的ではない」と、そして修理させればいいのです。ですから、あなたはよりリラックスしています。これはビジネスでも、家族でも、自分の個人的な生活でもちゃんと機能します。

誰か、後方の人が質問しましたね。

参加者: 私の質問は倫理についてです。ある本や経典では、偉大な教師たちが倫理的に振る舞わないようなことも書かれています。また、国が違えば、違う風習があります。例えば、古代ギリシャでは少年と住むことが普通でした。質問はこのことについてではありませんが。私の考えは、倫理はこのような違うカテゴリーを考えだすもので、文化が違えば違う慣習を持つと思うのですが、そうではないのでしょうか?

アレックス: ここには、二つの質問がありますね。

一つ目は、さまざまな教師について読むことに関して、倫理に反するような不適切な行動を取る教師には、実際資格のない者で虐待的な教師と − これには多くの例があげられますが − 他方ではある特別な目的で強固なやり方で行動する教師がいますが、こちらは有益な者です。これらを区別するべきです。例えば、私自身の教師のセルコン・リンポチェは、いつも私を叱り、愚か者と呼んでいました。それが実際上私に対して使った唯一の名前でしたが、それは私がハーバード大学出身で、そこでは優秀で、私は非常に傲慢だったからです。ですから、彼が叱ることは実際私の役に立ったのです、何故なら私は確かに愚か者でそれほど頭が言い訳ではないと指摘してくれたのですから、謙虚さを身につけるためにとても大きく役立ちました。本当にとても役立ったのです。彼は叱るという態度を取ることで、それはある状況では破壊的にもなれますが、私を助けようとの動機でそのように振る舞ったのです。私に怒って、私を害しようとして、そのように振る舞ったのではありません。それが違いです。

さて、倫理の文化的な側面に関しては、例えば殺生などその本質が破壊的であると言われる行為があります。ですから、例えば、ある文化では家族の一員が殺されれば、仕返しに相手の家族の一人を殺さなくてはいけないとします。そしてその文化の倫理体制によれば、それは正しいことで、仕返しに殺さなければ間違っているとなります。しかし、自然の観点からはそれはやはり破壊的です。彼らの倫理はその点に関して、少し歪んでいます。ところが、女性はいつも頭をスカーフで覆おうべきとする文化的な倫理は、スカーフで覆うことそのものは破壊的ではありません(中立です)から、文化的に特異なものです。ですから、倫理という面では、私たちはあるものは自然と破壊的で、あるものは一般的な枠組みというよりある種の枠組みの中でのみ、不適切とか破壊的だと考えられていることを区別する(differentiate)必要があります。

他に何かありますか?ないですね。それでは、続けましょう

倫理的な規律を訓練する

これらの三学を訓練する時に、どのようにしてなされているかを八正道と呼ばれている形で提示できます。これら三つの側面、すなわち倫理的な自己規律(持戒)、集中力(禅定)、判別する認識(智慧)を発展させるために、八種の訓練または事物があります。そして、これら八つのそれぞれに(私たちが自分から取り除きたいと欲する)間違ったやり方での適用と、私たちが取り入れたい正しい形があります。

では、倫理的な規律から初めましょう。ここでは三つの側面があり、三つの訓練があります:

  • 正語 (yan-dag-pa’i ngag)と呼ばれているもの 喋り方、意思疎通(コミュニケーション)の図りの方について

  • 正業(yan-dag-pa’i las-kyi mtha’) 仏教用語では行為の正しい境界 言い換えれば、どのように行動するか? 身体上の行為において、その線を超えないとする境界線とは何か?

  • 正命 (yan-dag-pa’i ‘tsho-ba) どのようにして正しく生計を立てるのか?

これらは、破壊的な言葉の使い方とか、破壊的な行動とか、破壊的な生計の立て方を避けて、他者の利益となるように建設的なやり方でそれぞれに携わることです。

不適切な言葉使い

不適切な言葉使いと考えられている、不幸や問題を生起させる様な言葉の使い方の種類を見てみましょう。

  • 最初の項目は、嘘をつくことです、本当ではないことを言うことです(妄語)。これは基本的には他者をだますことです。それが何の問題があるのでしょうか?問題は、私たちが嘘つきで、言葉の上で他者をだます者だとして知られると、誰も信じてくれません、信用しません。ですから、これは不幸な、不満足な状況です。

  • 第二の言葉の上の破壊的な行為は、不和を生じさせるようなことを言うこと(両舌)ですが、人々にその友人達やパートナーの悪口を言うことを意味します。その結果として起きることは何でしょうか?私があなたといる時に「ああ、あなたの友人(パートナー、夫、妻)は本当にひどい人だ」などと言います。さて、あなたは何を考えますか?きっと「彼は私の裏では何を言っているのだろう?」と考えるでしょう。ですから、私たちがいつも他人の悪口を言っていると、色々な関係が壊れます。人々は離れていくでしょう、何故なら彼らは私たちが同様に彼らの悪口を言うだろうと考えるからです。ここでの私たちの動機は彼らの仲を裂くことです。

  • 第三の言葉の上での破壊的な行為は、粗暴で乱暴に喋ること(悪口)です。私たちがいつも他人に怒鳴ったり、ののしったりと虐待的な類いの喋り方をしていると、相手もこちらに対して同様に喋りだすでしょう。マゾヒストでもない限り、いつも怒鳴り散らしている人と一緒にいる気にはなれません。

  • 第四は雑談(綺語)です。いつも喋り続けていれば、他人の話を遮ってばかりいれば、そして全く意味のないことばかり喋っていれば、その結果は何でしょう?誰もこちらを真剣に受け止めません。人々は一緒にいるのが嫌な人だと思うでしょうし、私たちは自分の時間と他人の時間を無駄にするだけです。

これらが四つの不適切な喋り方です。

  • 嘘をつくこと(妄語)

  • 仲違いを起こすような他者の悪口を言うこと(両舌)

  • 乱暴な言葉を使う、人を傷つけるような言葉(悪口)

  • 全く意味のない無駄話(綺語)ゴシップ/うわさ話、自分にも他人にも全く関係のないことについて、他人の事をあれこれ言うこと

正しい言葉の使い方(正語)

それでは、私たちが規律を適用したい正しい言葉の使い方(正語)とは何でしょう?建設的な言葉の使い方はそれら四つを避けることです。そうですね?ですから、私たちが発展させたい最初の規律のレベルは、本当ではないことを言いたい気がする時、誰かを怒鳴りたい気がする時、ただお喋りがしたい気がする時、それは破壊的だと不幸を生むのだと気づいて、そうしないことです。

それは簡単ではありません。何故なら、あなたはその気がするする時、強迫的な衝動で(compulsively)そうする前に、思いとどまらなければなりません。例えば、あなたがケーキをもう一切れ食べたいという気がします。衝動的に冷蔵庫(何でもいいですが)に行って、ケーキを取ろうとする前に「食べたい気がするけど、それがどうした?行動に移す必要はない。もしその行動を取れば、もっと太るだけだ。そうはなりたくない」と気がつくのです。そして、冷蔵庫の前には行かないのです。時々、そういう機会がありますよね。私自身、ある日、ケーキが食べたい気がしたのです、だからこの例をあげているのですが、家には一切れもなかったのです。それで、帰宅の途中、私が好きな種類のケーキを置いているお気に入りの店へ向かい始めたのです。でも、歩きながら(それについて考える距離がありました)「おい、おい。今減量しようとしているし、そのケーキは実は必要じゃあない」と自分に言ったのです。ここで、倫理的な規律ですが、私は引き返して、帰宅しました。規律というのはこのことです。

インドの仏教の偉大な聖者であるシャーンティデーヴァは、このようなことをしたい気がする色々な例をだし、その場合は木材のようにそのままでいるようにと書きました。ですから、私があなたを怒鳴りたい気がする時、または何かひどいことを言いたい気がする時、そうすれば自分自身を動揺させあなたを動揺させることだと気がつき、そしてそう言わなければいいのです。木材のようにそのままでいるのです。馬鹿な冗談を言いたい気がする、馬鹿なコメントを言いたい気がする時に、これはただの無駄話だと気がついて、言うのを止めるのです。このような事です。

ここで関わっているのが最初のレベルの倫理的な規律です。これらの四つの破壊的なやり方の一つで喋ろうという気がする時には、これは不幸と問題を引き起こすだけだと思い出して、そうは言わない、何も言わないのです。

第二のレベルは、実際に建設的なことをする規律です。建設的なやり方で喋ることは、そうすればさらなる幸福をもたらし、さらなる調和のとれた状況を作り出すからです。ここで、私たちは何をしているのでしょうか?私たちは因果応報について考えているのです。

正語を育成するためには非常に意識的な努力が必要で、適切な時に、適切な方法で、意味のあることだけを喋る、真実を語る、優しく喋る、親切に喋るとの強い決意が要求されます。

  • ですから、自分が食べた朝食の事や「この人が言った事が気に入らない」などと、いつも電話したり、SMSやメールを送ったりして、人々を邪魔しない事です。これは意味のないおしゃべりで、他者を邪魔するのですよね。

  • あるいは、不適切なマナーで喋る事です。私は人々にイライラする時があります。ある人が私のウェブサイトの事(や何であれ)について、何らかの説得をしようとします。一度、説明をして、こちらは「わかった。そうしよう」と言うのですが、相手はまた説得しようとしたりします。それが、延々と続くのです。私はすでにそうすると答えたのに。これは、不適切な方法です – その人が同意する時には、会話はそこで終わりです。そして、別の事に進むことです。

ですから、喋る時は、不和よりも調和を生み出すような喋り方で、助けとなるように努力するのです。

さて、もちろん判別を使わなくてはなりません。これら三学は相互に調和し合いします。真実を語るには、誰かが醜いシャツやドレスを着ていれば、それが彼/彼女を傷つけるのであっても「それは本当に醜いよ」とか「ひどい格好だね」とは言いません。ですから、時にはうまくやること(skillful)が必要なのですが、それは関わる人に依存します。

私の姉がベルリンに来ていたのですが、二人でどこかに出かけようとして、彼女はブラウスを着ましたが、少し伸びていました。自分の姉ですから、私は「それはひどい格好だね。他のブラウスに変えた方がいいよ」と言えました。でも、他の人であれば、そんなことは言えません。ですから、判別する認識を使うのです。自分の姉に言えることと、他人に言えることは違います。自分の新しいガールフレンドには、外出する時に「醜いブラウスだね。何か他のものに変えた方がいいよ」とは言わないでしょう、それが現実だとしても。

そして、きつい言葉ですが、時には強く言わなくてはいけない時もあります。あなたの子供がマッチとか火とかライターとかで遊んでいたとすれば、強く言わなくてはいけません。しかし、乱暴ではいけません。あなたの動機は怒りではありません。そして「ひどい格好だね」と言わない動機も、相手をだますためではありません。ですから、動機が本当に大切なのです。

と言う事で、私たちは破壊的な喋り方を避けるために、建設的に関わるための規律、倫理的な規律を、自己規律を持つのです。

間違った言葉使いの他の例

さて、これらは破壊的な言葉の使い方の古典的な提示でしたが、私が開発した感受性の訓練というプログラムでは、私はこれらの破壊的な言葉の使い方として、他者に対してだけではなく、自分と向き合う時に自分自身に対しても向けるように分析を拡げることを加えました。ですから、私たちは不適切な言葉の使い方をもっと広い意味で考える必要があると思うのです。

嘘をつくことの中には、自分の感じていることや意図について他者に嘘をつくこと、自分自身があなたに対して感じていることやあなたに対する自分の実際の意図について自分をだますことも含まれます。私たちは誰かに対してとても良くして、感じよく話すかもしれません。愛しているよと言ったりして、それについて自分さえもだましているかもしれません。実際には自分の欲しいものは相手のお金とかであったりするのです。ある意味では、私たちは嘘をついている、だましているのです。それは、相手に「実は、君を愛してはいない。ただ、お金が欲しいだけだ」と言うことを意味するのではありません。それは少し不適切です。しかし、自分自身の中で、誰かについて実際感じていることや、この人に関する自分の意図について、正直であったかどうかを調べることなのです。そしてそれがお金欲しさとかなどと心を乱す感情を土台にしていれば正すのです。

そして両舌ですが、それはある人をその友人たちから離そうとすることだけを言っているのではありません、暴言をはいて、友人たちがうんざりして自分から離れていく原因にもなれるのです。ですから、それは友人たちが離れていくようにしむけるだけでなく、いつも文句ばかり言うなどとあまりにもひどい喋り方だと、他の誰もが離れていくことも言っているのです。いつも文句を言っているとか、いかに全てがひどいかなどと言ったりして、いつもネガティブな人がいれば、誰もその人といたくありません。ですから、同様に、私たちがいつもそうであれば、誰が私たちといたいでしょうか?あるいは、とめどもなく喋り続けて、他の人が何か言う機会を与えなければ、それも人を追い払います。私もそのように喋る人々を知っていますが、特に彼らといたいとは思いません。ですから、自分も彼らのように喋れば、誰も私といたくないでしょう。と言う事で、他者の長所について言うこと − 悪口を言ったり文句を言うなどとネガティブではなく – いつもポジティブでいることが非常に大切です。

そして、きつい言葉(悪口 あっく)ですが、他者に対して言葉の上で虐待的になることを止めるだけでなく、自分自身に対してもそういうことは止めた方がいいのです。自分自身に対してひどいことを言う人が多いのですが「なんて馬鹿なやつなのだ」「本当に馬鹿だね」「本当にひどい人間だ」「一体、誰があんたのことを好きになれるのかね?」などと、自分に対して本当にひどいことを言うのです。もし、他の人に言えば、とても残酷でしょう。自分自身に対しても、ひどい事ですよね。自分をより幸せにするなんてことは絶対にありませんね。ですから、大切なことは私たちの自分に対する態度、心の中で自分をどのようにして扱うのか、そしてどのように自分に話すのかです。

雑談(綺語 きご)、これはいつもつまらない事について、SMSやFacebookやツイートで他者を邪魔したりするのは、彼らの時間や自分自身の時間を無駄にするだけではありません。それだけではなく − それは全く意味のない無駄話(綺語)で、彼らの時間を無駄にし、自分の時間も無駄にします − 綺語の中のゴシップのカテゴリーの中には、他者の個人的な事を暴露してその人の信頼を裏切る事もあります。誰かがあなたに – ゲイであるとか、ガンを煩っているなど何であれ – 秘密にしていて欲しいと言うのに「ただ誰かに話す必要があったのだ、だけど誰にも言わないでいて欲しい」と、それなのに、あなたがすぐに誰か他の人に伝える。これは確実に綺語です。彼らの信頼を裏切っています。

ここで、自分自身について見てみましょう。自分の個人的な事を – 疑い、心配などですが − 誰かまわず他者に喋らない事です。例えば、子供たちとはそういう事を分かち合う必要はありません。あなたが幼い子供を持つ親で「ああ、それでも心配だ。どうやって自分たちが食べていけるだけを手に入れようか?家賃の支払いはどうしよう?」などのような事は、子供たちと分かち合う必要はありません。あるいは「ガールフレンド/ボーイフレンドとうまくいっていない」なども、誰にでも分かち合うわけではないでしょう。ですから、私たちは他の人には関係のない個人的な事に関して、不適切な事に関して人を選ばずに喋る事は避けるべきです。

ですから、これが最初の側面です。正語と呼ばれていますが、適切な喋り方のことです。しばらく、それについて考えてみてください。それから、質問がでてくるかもしれません。ところで、正語について考える時には、自分の心を振り返ってみることです。実際、他者とどのように話しているのか?自分自身に対してはどう話しているかということを振り返ってみるのです。

オーケー。これをさまざまな状況で、適切な人々に対する、適切な喋り方にまでさらに拡張できると思います。ある状況やある人々に対して、非常に丁寧に喋る時もあれば、他の状況ではざっくばらんに話しますね。丁寧に話さなくてはいけない人々に対して、ざっくばらんに話すことは適切ではありませんね。みんなの居心地を悪くします。あるいは、子供に何かを説明しようとする時には、その子が分かるように話さなくてはなりません。大学の教授に説明するのと同じようには説明しませんよね。

質疑応答

どのようにして意思疎通を図るのか、破壊的なまたは不適切な喋り方を避けるための規律について、建設的に喋るための規律について、そして他者の助けとなる様な喋り方に関わる規律について何か質問がありますか?

参加者: 私の質問は規律そのものについての一般的なことです。規律を持つ訓練をする時には、間違ったりすることもあるでしょう。このような間違いに対して、どのようにすれば、自分を責めないで、健全なやり方で対応できるのでしょうか?

アレックス: そうですね、規律は「私はあの境界を超える様な事はしない」と境界を設定する事が関わってきます。ですから、自分がその境界を超えれば、それは必ず起きる事ですが – 私があなたをだますとか、怒鳴るなど何でもいいでしょう – その時には、まず間違いを犯した事を認める必要があります。ここで、四つの対治がセットになった方法があります。

  • 第一に、それを認めるべき、自分に正直であることです。

  • そして、後悔すること。後悔は罪悪感とは非常に違うものです。後悔は「ああ言わなければ良かったのに、でもそれは自分が悪い人間だという事ではない」です。罪悪感は「私は悪い人間だ」と同一化し「私が言った事は本当にひどいことだ」にしがみつき、手放せないことです。

  • そして、二度と繰り返さないようにしようと決意します。

  • そして、自分が進む方向は、自分の動機は「私はあの境界を越えないようにしたい、何故ならそれを超えれば自分を不幸にするだけで、問題を生み出すだけ」だと再確認します。

  • それから、ある対抗法を適用します。例えば、あなたが誰かに怒鳴ったら「ごめんなさい。本当に機嫌が悪かったのだ。後悔しているよ。繰り返さないようにするつもりだ」と誤ります。そのように、対治しようとするのです。

ここで、誰かに電話をする時に非常に役立つガイドラインとなる事があります。人々はどんな時でもSMSを送ったりと、みんなをいつも邪魔していますが、これはひどい綺語の一種です。しかし、誰かに電話をかける時に、まず始めに「今、忙しいですか?少し時間を取れますか?今は大丈夫ですか?」と様子を伺うのです。相手は忙しくて、話す時間がないかもしれません。自分が話さなくてはいけない事はとても大切なのだと、相手は何もかもを置いて聞くべきだとだけ言い張らないで下さい。

このSMSの悪い習慣は、メッセージに対して人々がすぐに返信しないと私たちが非常に怒る事です。ですから、これも同様の事です。私たちは自分が要求したり、言っている事に対し、人々が全てを止めて、それを読んで返信するべきだと思い込んでいるのです。これは集中するためには実によくないことです。相手は集中できなくなりますので、相手にとっても破壊的で、あなたにとっても破壊的です(何故なら、あなたは「私はとても大切だ」と考えているのですから)。ですから、相手に対して、あなたは誤るのです。全く意味のない、大切ではないSMSを送る事に対して誤って「これからは本当に大切な時だけSMSを送ります。そちらに時間がある時だけ、返信して下さい」と書くのです。

参加者: 私の質問は誰かを助けようとする自分たちのポジティブな動機と喋り方を一つにする事についてです。例えば、自分の動機は他者に利益をもたらすためなのに、あまり優しくない言い方でその人に言う必要がある時です。その時は、ただ黙っていた方が良いのでしょうか?それとも、あまり優しくはない様な事でもポジティブな動機を持って言うべきでしょうか?

アレックス: それは、確かに、非常にきつく言う必要がありますね、例えば、子供がライターで遊んでいる時などの場合。

参加者: 私の例は自分が喋っている人の事ではなく、そこにいない第三者についてです。ですから、性格が悪いかもしれない第三者の事について、その人に話すべきでしょうか?

アレックス: それは非常に微妙な課題ですね。例えば、あなたの十代の子供が薬物や盗みなどをする友人たちとたむろしているとしましょう。そうなると非常に難しいですね(十代の子供にその友達の悪口を言うと、普通は反抗して全く正反対の事をします)。ですから、あなたの子供とその友人たちとの仲を裂こうとする動機は、子供が利益を得るためですよね、あなた自身がその子たちと友人になりたいために、嫉妬で仲違いさせようとしているわけではないですよね(笑)。しかし、ここでは器用にならなくてはいけません。何故なら、子供がその友人たちから離れるためには、基本的にはその子自身が離れようとの動機を持てるように「これは自分にどう影響しているのだろうか」ということを知り、本人が動機づけられなければいけません。これは簡単ではないですね。

私が思うに、自分の子供をその友人たちから引き裂くという事より、悪い習慣から引き離す事の方にもっと焦点を当てる必要があると思います。ダライ・ラマ法王は、人とその人の行為を区別する必要性を、この点をいつも指摘しています。子供の友人たちを人として、その子たちの行為から区別しなくてはいけません。そのようにして、いつも薬物に手を出したり酔っぱらってばかりいる事が、自分自身にネガティブな影響を与えることを子供が分かるようになれば、このような友人たちとつきあうことを止めるか、一緒にいたとしても、自分は飲まない、薬物には手を出さないようになれるでしょう。

これは十代の子供たちに対しては非常に難しいことですが、誤った方向に導く教師や金融助言者(ファイナンシャル・アドバイザー)を持つ人々に関しては、もっと関連性があるかもしれません。ファイナンシャル・アドバイザーは基本的にただあなたを通じてお金を稼ぎたいのです。(「あなたがこの株を買えば、このポリシーを買えば、、、」と、アドバイザーは5%を稼ぎます。)ですから、誰かに「彼は自分の利益のために、とにかく何かを売ろうとしているのだよ」と警告するためには、こちらの動機はこの人が利用されないように助ける事です。ですから「その人は悪い人で、ただ金を稼ぎたいだけであなたをだましているのだ」と言うよりは、もっとうまいやり方はただ現実を述べる事です。「あなたに売るものが何であれ、その人はその5%を利益として得るのだから、彼があなたに何かを売る事は彼の利益となる。あなたにとっては、勧められている事が適切かそうでないかを調査して答えを見つけ出す事が自分の利益になるのだよ」と。ですから、あなたはその人の事について実際何か悪い事を言っているのではなく、その人の主要点が利益を得る事で、そのために彼らは信頼を得るように、友好的になるように訓練されているという現実を述べているだけです。

中古車を売ろうとする人と同じですね。彼らを信頼する事はありませんね。彼らはただ中古車を売る事に興味があるのですから、車の何が問題かなどはあなたに伝えないでしょう。どうにかしてあなたを説得して買わせようと、友好的になったりして、努力しているのです。それを実際に試すのはあなた次第です。そこで、あなたは試乗しても良いかと尋ねるのです。

最後の質問です。.

参加者: 自分の本当の動機が何かを、どのようにして理解するのですか?時々、ある場合には、表面的には誰かを助けようとの動機を持っているかのように見える時も、内面の深いところでは自分たちの動機が破壊的な時もあります。それらをどう区別するのでしょうか?

アレックス: 自分に正直になって分析して下さい – もっと深く自分を観察して下さい。ここで、心を乱す感情 – それは自分の心の平安を失わせますが – の定義を見てみることが非常に役立ちます。ある状況に対して、自分がどのように行動し喋り対応しているかを調べてみる時、あなたのエネルギー(気)は穏やかですか、それとも動揺していますか?「さて、私は落ち着いていないのか、否か」を見るために、自分のエネルギーを十分に感じれるように穏やかになろうとしてみて下さい。

OK。今日はここで終わりましょう。明日は八正道と呼ばれている事について続けましょう。ありがとうございました。